斎藤一
[Wikipedia|▼Menu]
斎藤(24歳)ら新選組は会津藩の指揮下に入り、4月5日には白河口の戦いに参加。8月21日母成峠の戦いにも参加した。敗戦により若松城下に退却。土方と合流したのはこの退却の最中、猪苗代でのことだった。その後、土方らは庄内へ向かい、大鳥ら幕軍の部隊は仙台に転戦したが、斎藤は会津に残留し、会津藩士とともに城外で新政府軍への抵抗を続けた。9月22日に会津藩が降伏したあとも斎藤は戦い続け、容保が派遣した使者の説得によって投降した。降伏後、捕虜となった会津藩士とともに、最初は旧会津藩領の塩川、のち越後高田謹慎生活を送った。
斗南藩

会津藩は降伏後改易され、会津松平家は家名断絶となったが、明治2年(1869年11月3日に再興を許された。知行高は陸奥国内で3万石とされ、藩地は猪苗代下北半島を松平家側で選ぶこととされた。東京で捕虜となっていた山川浩ら旧藩幹部は、越後高田で謹慎していた藩士らに諮ることなく下北半島を選択。藩名は新たに斗南藩と命名され、斎藤も斗南藩士として下北半島へ赴いた。

斎藤は斗南藩領の五戸に移住し、篠田やそと結婚した。篠田家は『諸士系譜』からも確認される名家で、会津藩士としては大身に属する。白虎隊士中二番隊に属し、飯盛山で自刃した篠田儀三郎とは遠縁にあたる。後年の明治7年(1874年)3月17日、元会津藩大目付・高木小十郎の娘・時尾と再婚した。元会津藩主・松平容保が上仲人、元会津藩家老佐川官兵衛と山川浩、倉沢平治右衛門が下仲人を務めた。この時、氏名を藤田五郎に改名している。時尾との間には、長男・勉、次男・剛、三男・龍雄の3人の子供を儲けることになる。
警視庁

明治7年(1874年)7月、東京に移住。警視庁に採用される。明治10年(1877年)2月、九州士族反乱西南戦争」が起こる。2月20日、内務省警視局で警部補に昇任。5月、別働第三旅団豊後口警視徴募隊二番小隊半隊長として西南戦争に参加。斬り込みの際に敵弾で負傷するも奮戦して、東京日日新聞に報道される[11]佐川官兵衛山川浩も参加しており、佐川は戦死した。戦後の明治12年(1879年)10月8日、斎藤は政府から勲七等青色桐葉章と賞金100円を授与された。明治14年(1881年)に警視局が廃止されると一旦陸軍省御用掛となり、その後警視庁の再設置により11月に巡査部長となる。その後明治18年(1885年)に警部補、明治21年(1888年)に麻布警察署詰外勤警部として勤務し、明治25年(1892年)12月、退職する[12]
晩年阿弥陀寺にある斎藤一の墓『東京高等師範学校一覧』(筑波大学中央図書館蔵)

警視庁退職時に、東京高等師範学校校長・高嶺秀夫(元会津藩士)らの推挙で、明治二十五年(1892年)4月から[13][14]、東京高等師範学校附属東京教育博物館(現・国立科学博物館史跡・湯島聖堂)の看守(守衛長)に奉職。明治31年(1898年)まで在職。同校の撃剣師範を務め学生に撃剣を教える。明治32年(1899年)に退職し、東京女子高等師範学校に庶務掛兼会計掛として勤務。生徒の登下校時は人力車の交通整理もしたという。明治42年(1909年)、退職。山川浩や高嶺秀夫とは親交が続いた。

大正4年(1915年)9月28日、胃潰瘍のため東京府東京市本郷区真砂町で死去。享年72。床の間結跏趺坐をして往生を遂げたと伝えられる。福島県会津若松市阿弥陀寺に葬られた。永倉新八も同年1月に死去している。遺品として近藤勇から贈られた「白蔵主根付」が、斎藤一の次男・藤田剛の婿養子先である浅羽家に伝わっている。
剣術
流派

斎藤の修めた剣術流派は、はっきりしていない。子孫の言い伝えでは一刀流であるとされてきた[15]

それに対し、斎藤の研究をしていた作家・赤間倭子は、一刀流説を否定して無外流であるとしている[15]。子孫に言い伝えられている一刀流とは、無外流のもとになった山口一刀流のことであるという。斎藤は播磨国で無外流(山口一刀流)を修め、津田一伝流関口流(柔術)も学んだという[15]。斎藤一が名乗った山口、斎藤姓と山口一刀流との関連も指摘している[15]。しかし、赤間が主な出典としている「藤田家文書」は非公開であり、また、無外流説は斎藤の父が播磨国出身であることと山口姓であることのみに基づいて推測したものであり、明確な典拠が示されておらず、論拠としては不十分である[15]
新選組

沖田総司永倉新八と並び新選組最強の剣士の一人であったといわれる。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}永倉新八は弟子に、「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と語ったという[要出典]。沖田総司、永倉新八らとともに新選組の撃剣師範を務めた。新選組のなかで最も人を斬ったとされ[16]大坂力士との乱闘、組内部における粛清天満屋事件戊辰戦争などで剣を振るった歴戦の隊員であった。刀での戦いの経験について後年、「どうもこの真剣での斬り合いというものは、敵がこう斬りこんで来たら、それをこう払っておいて、そのすきにこう斬りこんで行くなどという事は出来るものではなく、夢中になって斬り合うのです」と語った。
警視庁

警視庁には撃剣世話掛という剣術指導の役職があったが、斎藤が撃剣世話掛を務めた記録はない。ただし、明治21年(1888年)の警視庁の剣術家名簿に藤田五郎(斎藤)の名前があり、級位は「四級」とある。当時の四級には他に川崎善三郎門奈正内藤高治などがいた。また、試合記録も残っており、明治15年(1882年)に向ヶ岡弥生社における撃剣大会富山円に引き分け、明治23年(1890年)に警視庁構内における春季撃剣大会で渡辺豊に勝っている。
師範学校

東京高等師範学校東京教育大学を経た、現在の筑波大学)では明治二十五年から明治三十一年まで[14]付属東京教育博物館係として務める。撃剣師範を務め、学生に剣術を教えたといわれる[17][13]。その剣技は衰えることなく、誰ひとりとして斎藤の竹刀に触れることさえできなかったという[18]。なお、同校には斎藤が退職した後、明治41年(1908年)に高野佐三郎(警視庁出身)が赴任している。
晩年

明治の末に神道無念流有信館山本忠次郎が木に吊るした空き缶を竹刀で突く練習をしていたところ、斎藤と思われる老人が通りかかり、忠次郎の竹刀で缶を突いてみせた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:64 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef