桓公の即位後、魯を攻撃し乾時(現在の山東省?博市桓台県)で大戦し、魯軍は敗走した[38]。鮑叔は荘公は書を送った[38]。その中には「家無二主,国無二君。寡君(桓公)已奉宗廟,公子糾欲行争奪,非不二之誼也。寡君以兄弟之親,不忍加戮,願假手于上国(魯国)。管仲・召忽,寡君之仇,諸受而戮于太廟」と記されていた[38]。魯人に害が及ぶのを畏れ、公子糾を殺し、召忽を自殺させ、管仲を廊に入れた[38]。桓公は管仲を殺そうとしたが、鮑叔が「公が斉の君主であるだけでよいならば、この私でも宰相が務まりましょう。しかし、公が天下の覇者になりたいと思われるならば宰相は管仲でなければなりません」と述べた[38]。桓公は意見を採り入れ、管仲を殺すふりをして、斉に帰国させた[38]。桓公と管仲は覇王になる術について会話し、大喜びし、大夫にして政事を行わせた[39][38]。 桓公は管仲を相国として、改革を推行した。前684年に西の小国の譚を滅ぼし、軍を魯に向けた。前681年には甄(現在の山東省?城県)で宋の桓公・陳の宣公・衛の恵公・鄭の詞と会盟し、盟主となった[40]。これは桓公が一人目の中原の盟主(覇者)となったことを表す[41]。同年、遂を滅ぼした[42]。前680年、宋は盟約に背き、桓公は周の天子
覇者
当時、中原の諸侯国は戎狄の攻撃に悩まされていた。桓公は「尊王攘夷」を旗印に西戎や北狄・徐・楚を討伐し周を安定させた。また、?[43]・譚・遂・?等の35国を滅ぼした[44][45]。前664年、山狄を北伐し、燕を救った[46][47][48]。前656年、鄭の要請により、斉・魯・宋・陳・衛・鄭・許・曹の連合軍が蔡に侵攻した。蔡が敗れると、諸侯はさらに当時力をつけていた楚を攻撃した[49]。そして、楚の成王が屈完(中国語版)を派遣して諸侯と盟を交わさせた[50][51][52]。前651年、桓公は諸侯と葵丘の会盟を執り行い、周王室より文王と武王の祭祀に用いた文武の胙を賜った[53]。ここに桓公は覇者となった[54][55]。春秋五覇の1人に数えられている。これにより姜斉の国力は最大となった。 賢臣の管仲や隰朋
後継争い
桓公は管仲が推していた公子昭を太子とし、宋の襄公を後見人とした。桓公四十三年(前643年)、桓公は重病となった。五公子(公子無詭・公子昭・公子潘・公子元・公子商人)は後継を争った[58]。十月、桓公は病死した[注 3]。五公子が後継を争ったために斉は混乱を迎えた[59]。桓公の死体は67日の間、納棺・埋葬される事もなく[45]、そのため遂には扉からウジが這い出してきたという[60]。易牙・豎?らは公子無詭を擁立した[61][62](斉侯無詭)。公子昭は宋に亡命した[63]。前642年春、宋の襄公は曹・衛・?の兵を率いて斉を攻め、公子昭を帰国させた。三月、宋の軍の圧力に屈して高氏(中国語版)や国氏(中国語版)は豎?・斉侯無詭を殺し、太子昭を迎え入れた。しかし四公子の支持者が宋へ追い返した[64]。