斉(せい、479年 - 502年)は、中国の南北朝時代に江南に存在した国。南朝の一つ。北朝の北斉や春秋戦国時代の斉などと区別するために南斉(なんせい)あるいは蕭斉(しょうせい)とも呼ばれる。 建国者の蕭道成は前漢の高祖劉邦を支えた功臣蕭何の子孫を称した。少なくともこの時代には高い家柄ではなく、南朝宋の下級兵士から徐々に出世して北魏戦線で軍閥化して実力者となった[1][2]。南朝宋の明帝の時代に実力をつけ始めた蕭道成は、明帝の死後に発生した皇族の江州刺史で桂陽王劉休範や荊州刺史沈攸之らの反乱を平定した[1]。一方で皇帝劉cは残忍で蕭道成の実力を恐れて排除を図ったため、477年に蕭道成は劉cを殺し、その弟の順帝を擁立した。こうして皇帝の廃立を決めるまでになった蕭道成は、479年に順帝から禅譲を受けて南朝斉を開いた。 蕭道成は質素倹約を基本とし、学問の発展にも努めて国勢を安定させた。だが蕭道成は在位3年で482年に死去した。長男の第2代皇帝武帝は、南朝宋の末期からの荒れた政治を改革するために全国的な検地を行い、国力を上昇させたが、一方で税は過酷であり、国内では唐寓之 498年に明帝が崩御すると、跡を継いだ次男の廃帝東昏侯も残虐な皇帝として知られ、世に「悪童天子」「殺戮王」と言われて悪逆の限りを尽くした[2][4]。東昏侯は皇族のみならず官僚、民衆を虐殺して、宮廷では過剰な奢侈をしたために政治は大きく乱れた。この犠牲者の中には南朝斉の皇族で蕭道成の族弟にあたる蕭順之の子の蕭懿も含まれており、兄を殺された事に激怒した蕭懿の弟の蕭衍は、501年に荊州襄陽において藩鎮や豪族・土豪を結集して挙兵し、建康に進撃して東昏侯や側近を粛清した[2][4][5]。 蕭衍は東昏侯の弟の和帝を擁立するが、502年に和帝から禅譲を受けて南朝梁を建国し、南朝斉は滅亡した[2]。和帝は同年の内に殺害されている。 なお、明帝の子の蕭宝寅は斉が梁によって滅ぼされると北魏に亡命したが、527年には北魏に反乱を起こして自立、一時的ではあるが斉の皇帝を称している。 南朝斉の文化的な中心は、武帝の次男の竟陵王蕭子良(460年 - 494年)のサロンであった。彼の邸宅である西邸には当時の第一級の文人が集い、その代表的な8名を「竟陵の八友」と呼んでいる。蕭衍もその一人に数えられていた。 蕭道成は南朝宋から禅譲を受ける過程で南朝宋の皇族が互いに殺し合い滅亡を成した事をよく知っていたため、一族には南朝宋の二の舞を演じぬように諌めていた[6]。だが西晋より続く皇族不穏の流れに抗えず結局は明帝や東昏侯のために同じ末路をたどる結果となった。 南朝斉では武帝の時代に南朝宋の孝武帝から開始された台使制度が不正や不法行為が繰り返されていた事から、蕭子良の提言もあり廃止した[1]。また地方政治を安定させるために地方官の任期を長期化してそれを通じて民政を改善させる施策を採用した[1]。だがその一方で戸籍の不正が繰り返され、税金や賦役を免除される士人になるために賄賂が横行して戸籍を改竄したりして南朝斉の財政基盤そのものが破壊されていき、その不満から486年には唐寓之という庶民が反乱を起こしている[3]。反乱自体は鎮圧されたが、戸籍の改竄で税収は減少し賦役につくものは減り、残された者がさらなる税役に苦しむ悪循環へとつながった[3]。 廟号諡号など姓名在位年号
歴史
建国期
短命王朝の興亡
文化
国家体制
皇族
社会・経済
斉の皇帝
1太祖高帝蕭道成479年 - 482年建元(479年-482年)
2世祖武帝蕭?482年 - 493年永明(483年-493年)
3廃帝
鬱林王蕭昭業493年 - 494年隆昌(494年)
4廃帝
海陵王蕭昭文494年延興(494年)
5高祖明帝蕭鸞494年 - 498年建武(494年-498年)
永泰(498年)
6廃帝
東昏侯蕭宝巻498年 - 501年永元(499年-501年)
7和帝蕭宝融501年 - 502年中興(501年-502年)
死後に皇帝号を追尊された者
蕭承之:高帝蕭道成の父。
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