文禄・慶長の役
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^ 宗氏の一族で、対馬国守護代を務めた。宗義智とは意見が合わず、後に暗殺された。
^ これは島津氏、後北条氏、伊達氏など諸大名の平定と同じやり方で、帰順すれば許すが、逆らったり無視した場合は大軍を派すというのが、秀吉の常套手段だった。
^ ここで言う「これまでの国王」とは足利将軍家を指す。秀吉と足利義昭の間にはもとより主従関係はなく、秀吉は将軍位を求めなかったので、簒奪とは言えず、日本の情勢に疎かったことが窺える。
^ 海路不慣れで道が分からないの意味。
^ 柳成龍の『懲録』による。代々の柚谷氏は朝鮮との交渉役の家柄であったのに、懲録では康広が朝鮮を侮辱した言動が書かれている。日本側記録に康広の処刑の話はなく、一族(康広の息子と思われる)柚谷智広は戦役後の国交回復交渉に携わって朝鮮で獄死した。
^ 宗義調は隠居してすでに死去。子の宗義智が継いでいた。
^ 宗氏のいつものやり口で無関係の囚人を引き渡した。
^ 柳成龍の『懲録』によるとこれが朝鮮が手にした最初の日本製の火縄銃だということだが、兵器廠に死蔵され顧みられなかった。
^ a b 宣祖は側室の仁嬪を寵愛し、その息子の信城君を溺愛していたが、群臣は光海君に従っていた。鄭K(西人派)は仁嬪の弟の金公諒が専横の傾向があるので排除しようとしたが、李山海(東人派/北人派)の子を通じてその話が金公諒に漏れ、仁嬪が国王に泣きついたことから、宣祖は激怒して鄭Kの官職を剥ぎ、追放に処した。
^ 金誠一はこのとき「必ず来寇があるとは限らない」という曖昧な否定論を述べた。翌年4月23日、日本軍が席巻する中で彼は慶尚右兵使の職務にあったが、解任逮捕された。しかし再び東人派の援護で、直後に慶尚右招諭使に任命されて、義兵の徴募に当たった。徳富 1935, p.398
^ 対馬の士は対外上は朝鮮陪臣でもあり、柳川調信は先の引見で朝鮮国王より嘉善大夫の爵位を授与されていた。参謀本部 1924, p.18
^ 。またこのとき、加藤清正が傷心の秀吉に外征を勧めて自らが先鋒を務めることを請うたという話があるが、これは清正の立場や前後の事情から考えて明らかに辻褄が合わず、鶴松死亡説(鬱憤説)に沿って作られた寓話か、加藤家傳が清正の役割を大きく誇張して書いたものと思われる。また、同年8月13日に清正が領国に対して36か条に及ぶ準備を指示する書状(「渋沢栄一文書」所収、東京大学史料編纂所所蔵影写本)には、大規模な軍事作戦に対する危機感を顕わにしている(中野等「唐入り(文禄の役)における加藤清正の動向」)。
^ 文禄の役における島津勢15,437人のうち6,565人 (43%) が人夫・水夫であった学研 編『文禄・慶長の役 : 東アジアを揺るがせた秀吉の野望』学研〈歴史群像シリーズ35〉、1993年、74頁。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 4056002789。 
^ 動員されたが出征していないため一般的に軍の合計には加えない。しかし元来はこれらもすべて渡海する計画であった。
^ 生駒親正の弟。生没年不明。
^ 大塩正貞の子。旧字で「大鹽與一郎」。生没年不明。
^ 長崎奉行に出世。
^ 慶長の役では軍目付。
^ 佐竹氏は出撃を命じられ、代わりに佐竹義久が出陣した。
^ 伊達政宗は出撃を命じられて、自主的に3,000人と出陣した。
^ 鍋島勢は1万で、波多党は鍋島配下とされたが、命令に背いて独自の大名として動き、再び秀吉の勘気に触れた。
^ 豊臣秀勝は巨済島で病死したので織田秀信に替わる。
^ しばしば陸上部隊としても活動。兵員の半分ほどは水主。
^ この敗戦の責任を問われ、4月25日に朝鮮側が斬首刑に処した。朝鮮史編修会 1937, p.442
^ この計画の創案者は李鎰自身であった。
^ そのような事実があったかどうかは不明。『加藤家傳』など加藤清正が先鋒であったとする書籍もあり、日朝交渉にかこつけて小西行長が抜け駆け的に単独突入をしたという説もあるが、概ね清正を立派な武人、行長を小人として描くのは典型的な江戸時代から好まれた“ストーリー”であり、徳富蘇峰は小西行長が一番隊で、加藤清正は二番隊であったのは純然たる事実として、否定する。
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