文永の役
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^ 『高麗史』巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年(十一月)己亥(二十七日)の条「己亥、東征師還合浦、遣同知樞密院事張鎰勞之。軍不還者無慮萬三千五百餘人。」
^ 『元史』巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十七年十二月辛未の条「以高麗中贊金方慶爲征日本都元帥、密直司副使朴球、金周鼎爲管高麗國征日本軍万戸、并賜虎符、」
^ a b 『朝鮮王朝実録』太祖実録 総序「十八年辛巳、世祖征日本、天下兵船、會于合浦。翼祖蒙上司文字、將本所人戸、簽撥軍人、與雙城ハ管府三撒千戸蒙古大塔失等赴征、」
^ 『元史』巻一百三十二 列傳第十九 哈剌?「十八年、擢輔國上將軍、都元帥、從國兵征日本、値颶風、舟回、明年二月、還戍慶元、」
^ a b c d e f 蘇天爵撰『滋溪文稿』巻二十一 碑誌十五 元故贈長葛県君張氏墓誌銘「明年、宋滅。論功行賞、受池州總把。歸附之初、新令未洽、豪民潛擾郷邑。公撫治以嚴、民頼以安。久之、朝廷以日本梗化不庭、出帥征之。公又行。由慶元汎舟入海凡七晝夜、抵達可島。去其國七十里。潮汐盈涸不常、舟弗能進。乃縛艦爲寨、碇鐡靈山下。命公守之。八月一日夜半、颶風大作、波濤如山。震撼撃撞、舟壞且盡。軍士號呼、溺死海中如麻。明日、大帥命公先歸。公由?羅逾高麗、渡遼水以?京師。遂歸于池。」
^ a b 『元史』巻一百二十三 列傳第十 月里麻思・附忽都哈思「十八年、以招討使將兵征日本、死於敵、」
^ 外山幹夫 『肥前松浦一族』 新人物往来社 2008年。なお外山はこの記述を誇張であろうとしている。
^ 『歴代鎮西要略』「弘安四年辛巳、蒙古大軍襲來。夏六月。元蒙古阿剌罕范文虎爲上將。忻都洪茶丘爲次将。遣數千之舟師。以伐我國。其兵不知幾百萬。」 なお、同書は文永の役においても日本軍「10万余騎」に対して元軍を「数百万」と記載している。「文永十一年九月異國大元蒙古兵舟五百餘艘襲來(中略)(日本側)都合十万余騎。至壹岐、松浦、今津、博多、姪濱所々相戦。十月二十日。合戦於筑前赤坂數回。於蒙古數百万之兵其交鉾之間、靡敵助我。破堅碎強。」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之二30頁、巻之四35頁)
^ a b 『深堀系図証文記録』「弘安四年五月蒙古襲來于筑之博多、賊船無數。其兵十餘萬侵九州、探題秀堅、大友豊後守時重、太宰小貳父子三人、菊池四郎武通、秋月九郎、原田、松浦、宗像大宮司、三原、山鹿・草野、島津等。其外御家人三十二人。防戰于豊筑之際、厚東、大内介來加、于豊前賊兵挑戰不利而退、探題被疵、大友戰死、從六波羅宇都宮貞綱爲大將其勢六萬餘騎、先陣已著于長府、蒙古大將出船、即日猛風吹破賊船、賊兵悉溺、歸者幾希、神國霊験異國舌、此時深堀左衛門尉時光、深堀彌五郎時仲有戰功。」(山田安栄編『伏敵篇』1891年 巻之四29頁)
^ a b 『元史』巻一百二十九 列傳第十六 阿剌罕「十八年,召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事,統蒙古軍四十萬征日本,行次慶元,卒于軍中」
^ a b c d e 『元史』巻一百五十四 列傳第四十一 洪福源・附洪俊奇「十七年、授龍虎衞上將軍、征東行省右丞、十八年、與右丞欣都、將舟師四萬、由高麗金州合浦以進、時右丞范文虎等、將兵十萬、由慶元、定海等処渡海、期至日本一岐、平戸等島合兵登岸、兵未交、秋八月、風壞舟而還。」
^ 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年(八月)乙未(二十六日)の条「茶丘曰、臣若不擧日本、何面目復見陛下、於是約束曰、茶丘忻都、率蒙麗漢四萬軍發合浦、范文虎率蠻軍十萬發江南、倶會日本一岐島、兩軍畢集、直抵日本、破之必矣、」
^ 4万を戦闘員のみとするか、水夫を含めるかで兵力が異なる。水夫を含めない場合は蒙古・漢軍30,000に『高麗史』に記載されている戦闘員9,960名と水夫17,029名を足すと東路軍の総兵力は56,989人となる。『元史』世祖本紀の至元十七年八月戊戌の条によると弘安の役に際して、高麗国王・忠烈王がクビライに元軍3万の軍勢を要請したとある。また、『高麗史』の同時期の記載でも高麗国王が高麗・漢軍を減らして、蒙古軍を増強するよう要請し、クビライはこれを了承したという記載があり、4万は戦闘員のみだった可能性が高い。『元史』巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十七年八月戊戌の条「戊戌、高麗王王ュ来朝、且言將益兵三万征日本。」および『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年 (八月)乙未(二十六日)の条「王以七事請、一以我軍鎮戌耽羅者、補東征之師、二減麗漢軍、使闍里帖木兒、益發蒙軍以進、三勿加洪茶丘職任、待其成功賞之、且令闍里帖木兒與臣、管征東省事、四少國軍官、皆賜?面、五漢地濱海之人、?充梢工水手、六遣按察使、廉問百姓疾苦、七臣躬至合浦、閲送軍馬、帝曰、已領所奏。」(大葉昇一 2003, p. 25)
^ a b c d e 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王七年(十一月)壬午(二十日)の条「壬午、各道按廉使啓、東征軍九千九百六十名、梢工水手一萬七千二十九名、其生還者一萬九千三百九十七名。」
^ a b c 『高麗史』巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王七年六月壬申(八日)の条「范文虎亦以戰艦三千五百艘、蠻軍十餘萬來、會値大風、蠻軍皆溺死。」
^ 江南軍の実体に関しては史料が少なく不明な点が多い。江南軍が10万であったことは『高麗史』や『元史』から確認できるが、『元史』洪茶丘伝では「時右丞范文虎等、將兵十萬、由慶元、定海等処渡海」とあり、江南軍10万とは戦闘員であったとしている。元の時代では、戦闘員と水夫はそれぞれを専門職とするのが通例であり、戦闘員が水夫を兼任することはそれほど事例が多くはなかった。なお東路軍4万が戦闘員であり、水夫が含まれていなかったことを考えれば、江南軍10万とは戦闘員の動員数であり、10万の軍勢の他に江南軍には多くの水夫が乗船していた可能性もある。大葉昇一 2003, p. 37また、日本側の史料『鎌倉年代記裏書』においても、元軍の構成として「大元船二千五百餘艘、兵士十五萬人、除水手等、高麗船千艘云々、」とあり、兵士15万人とは別に水夫がいたとしている。
^ a b 『鎌倉年代記裏書』「今年(弘安四年)七月、大元賊徒、自宋朝、高麗數千艘船寄來、數日漂對馬海上而後群集肥前國鷹島之處、同卅日夜、閏七月一日大風、賊船悉漂倒、死者不知幾千萬、但將軍范文虎歸國云々、大元船二千五百餘艘、兵士十五萬人、除水手等、高麗船千艘云々、」(竹内 理三編集『続史料大成 別巻 鎌倉年代記・武家年代記・鎌倉大日記』臨川書店増補版 1979年9月 54頁)

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