近世以降は戦争が高度化・複雑化し軍事に関して専門的な知識・技能を持つ人材の確保が軍隊の急務になってきたため、近代からは士官学校で教育を受けた士官が指揮官となり、各兵科の教育を受けた下士官や兵による職業軍人で構成された軍に変化していった。同時に軍隊に残っていた王族や貴族といった政治家勢力を軍隊から排除することが指揮統率の合理化に必要である、ということが職業軍人たちから主張されるようになり、軍政分離が進んだ。これが軍隊の専門化を進め、現代の文民統制の基本形となっている。 文民統制は17世紀から18世紀のイギリスにおいて登場した。中世の国王の軍事力乱用やクロムウェルの独裁政治の影響から国王の常備軍を危険視する声が高まり、議会と国王の権力闘争が行われた中、1688年の名誉革命と翌年の権利章典によって、議会が軍隊を統制することによって国王の権限を弱体化させようとした。しかし議会はその意思決定に多大な時間がかかり、また軍事に関する決定事項は膨大であるために軍隊の仕事がしばしば滞り、結局後に議会は軍隊の指揮監督権を国王に返還した。1727年に責任内閣制が発足して陸軍大臣が選ばれたが、軍隊の総司令官の人事権と統帥権は国王にあったため、陸軍大臣は軍事政策に関する権限のみ委託されており、二元的な管轄が残っていた。 本格的に政軍関係問題が浮かび上がったのは19世紀に入り、プロフェッショナル将校団が台頭してきたことに起因する。プロイセン王国の将校であったカール・フォン・クラウゼヴィッツが、自著『戦争論』のなかで、「政治が目的であって戦争は手段である」と述べて政治の軍事に対する優越を論じ、その上で「戦争がそれ自身の法則を持つ事実は、プロフェッショナルの職業軍人に外部から邪魔されずにこの法則にしたがって専門技術を発展させることが認められることを要求する。」として軍事専門家組織としての軍隊の確立を要求した。これが現代の文民統制の原型である。また同時に効率的に軍事を政治の統制下におくために、「武官を入閣させるべきである」と論じた。しかしクラウゼヴィッツの理論は後世の研究者たちによって「政治を軍事行動に奉仕させるために、武官を入閣させるべきである」と誤解された。 第二次世界大戦時、ドイツのアドルフ・ヒトラー、イタリアのベニート・ムッソリーニ、またソ連のヨシフ・スターリンは文民の立場で戦争指導を行った(但し戦争が本格化すると、それぞれ陸軍総司令官・元帥首席・ソ連邦元帥として軍隊の地位や階級を自らに付与し、公式の場で軍服を着用する事も多かった)。しかし、これらの全体主義国家ではそもそも国政に一般国民が参与する機会が著しく制限されていたこと、軍事力が体制の維持に利用され軍による弾圧や市民の殺害が行われるなど「軍事に対する主権者国民の優位」という文民統制の意義は大きく損なわれた。そのためドイツ国防軍によるヒトラー暗殺計画のように、文民の政権を武力で打倒してでも民主主義を復活させようという企てが起こるに至った。 アメリカ合衆国は軍隊を創設した当初から強力な常備軍を持たないことを掲げ、その統帥権を伝統的に文民政治家に委ねてきた。合衆国憲法においては大統領は軍隊の最高指揮官であると定めており、大統領が軍隊を統帥し、軍隊の維持および宣戦布告は議会の権限であると定められている。軍部各省の長官・次官・長官補佐などの文民主要ポストに加え、佐官以上の将校[7][注 6]の任命と昇進は上院の同意のもとで大統領によって行われる。 南北戦争においてもリンカーン大統領が戦争指導を行った。この際に、大統領による軍事指揮としての大統領令をもってして、交戦地域や占領地域のみならず銃後の市民の自由権や財産権も大きく制約され、その多くが合衆国最高裁判所の合憲判決により大統領の権限として認められた。第二次世界大戦においても大統領の統帥権の徹底という意味での文民統制が機能しており、フランクリン・ルーズベルト大統領は、ウィリアム・リーヒ統合参謀本部議長との協議を通じて戦争指導を行った。 大戦後、空軍を陸軍から独立させ国防総省が発足した際に、海軍出身の国防長官が空軍と対立した末に病気辞任し、後任の陸軍出身の国防長官は海軍と対立し、その結果として海軍長官が辞任し数名の海軍将官が解任される「提督たちの反乱」が起こっている。 朝鮮戦争時においては、朝鮮国連軍の司令官であったダグラス・マッカーサーが軍事的合理性から、核兵器の使用を含めた中華人民共和国への攻撃を具申するが、トルーマン大統領は、中国への攻撃は、軍事面からは必要かもしれないが、全体的な国際情勢の観点から不利益となりうると考えて却下した。しかし、却下された後も、マッカーサーは政府からの緘口指示に反して外部に向けて主張を述べ続けたため、トルーマンはこれを文民統制違反とみなしてマッカーサーを罷免
欧州
米国
ベトナム戦争は議会権限に属する宣戦布告を経ずに大統領の判断でなし崩しに拡大したため、後に議会は1973年戦争権限法を制定して大統領の軍指揮権に一定の制約を設けている。ベトナム戦争では、現地の総司令官ウェストモーランドが「政治がガイダンスを示さないために軍人が政治に介入せざるを得なかった」として国家戦略の不在のために軍事作戦の目的が曖昧化していたと述べており、また当時の第7空軍司令官は政府の指令を30回も破っていたことに示されるように、常に文民統制が効率的に機能していたわけではない。
社会主義諸国2019年10月中国建国70周年の軍事パレードで中国共産党旗を掲げる中国人民解放軍
マルクス・レーニン主義的理解において、文民統制は共産党の指導に軍が従うことを意味し、党の政治的決定あるいは政治的目的実現のため、軍は党に服属するものとされる(多くの社会主義国の憲法には「共産党の指導的役割」が明記されている)。そのため政治将校制度のような党の指導性が確実に実施される仕組みが整えられていた。中国人民解放軍やソビエト連邦の赤軍は革命戦争中に党の軍隊として発足し、党軍のままで国軍の代役を果たすものであるため、党が軍を直接指揮する。ただし赤軍は1946年に国軍のソビエト連邦軍に改組されている。
ソ連軍の最高司令官はソ連共産党書記長であり、書記長は軍事だけでなく、経済などあらゆる政治的な権限を持っていた。また、党書記長は国防会議の議長も兼ねていた[8]。
中国人民解放軍の最高司令官は中国共産党中央軍事委員会主席(基本的に中華人民共和国中央軍事委員会主席を兼ねる)であり、政治上の最高実力者が就くポストとみなされている。おおむね党の最高位者が兼ね、1989年からは中国共産党中央委員会総書記職も兼務する慣行がある。例外的に、最高実力者であった時代のケ小平は、党と国家の最高位ポストには就かず、中央軍事委員会主席と党中央顧問委員会主任にのみ就いていた。