文楽
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文楽人形の改良

(1861年(文久元年刊行)の文献[5]による)
足を附けるようになる。・・・・・・17世紀後半[6](山本土佐椽角太夫(やまもととさのじょうかくだゆう)の時代)の「源氏烏帽子折(げんじえぼしおり)」の木偶より。

指先を動かせるようになる。・・・・1733年(享保18年)「車返合戦桜大森彦七(くるまかえしかっせんざくらおおもり ひこしち)」の木偶より。

帷子衣装を着せるようになる。・・・1745年(延享2年)「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)」の木偶より。

眉毛を動かせるようになる。・・・・1741年(元文5年)「武烈天皇艤(ぶれつてんおうふなよそおい)」の木偶より。

目を動かし、舌を出し、髪を逆立て、腹を動かせるようになる。…1861年(文久元年)の当時の様子。

現在の文楽人形

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文楽人形には、男女のほか、年齢・身分・性格によって「かしら」が異なり、それぞれ以下のような種類がある。
男性のかしら


男性的で哀愁を帯びた強さがあらわれている立役、検非違使・剣菱(けんびし)

嫌味で卑屈な表情の端敵役の陀羅助(だらすけ)

三枚目の敵役、与勘平(よかんぺい)

正直な町人、又平(またへい)

慈愛に満ちた心を持つ老武士、鬼一(きいち)

20代前後の二枚目役、源太(げんだ)

10代の恋愛ものの相手役に用いられる、若男(わかおとこ)

40代から50代頃の武将で、聡明繊細な表情を浮かべた孔明(こうめい)

時代物の豪快な武将、金時(きんとき)
など
女性のかしら


14、5歳の未婚女性他に用いられる、初々しい表情の娘(むすめ)

20代から40代の幅広い女性に用いられる老女形(ふけおやま)

最高位の遊女としての気品と色気、芯の強さを持ち合わせた女性のかしらで、最も華麗である傾城(けいせい)

三枚目役のお福(おふく)
など

素材は木曽檜を用い、眉(アオチ)・目(ヒキ目・ヨリ目)など動くものには仕掛けを、また内部にうなづき糸をつけるなどして、表情を豊かにする工夫が施されている。かしらを動かすための操作索には鯨ひげが使われる。

人形の衣裳はそのつど脱がされ、かしらと別々に保管されている。よって使用する際には、人形遣いは自分で遣う人形の衣裳をつけることが必要となる。それを、人形拵えという。
歴史
人形浄瑠璃について国立文楽劇場(大阪市中央区)

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人形芝居江戸時代初期に三味線音楽、浄瑠璃と結びついて生まれたとされる。太夫では竹本座大坂に開いた竹本義太夫、作者では近松門左衛門紀海音といった優れた才能によって花開いた。一時期は歌舞伎をしのぐ人気を誇り、歌舞伎にもさまざまな影響を与えた。今日でも櫓下(最高位の太夫)は芸事における地位が高いとされる。多くの歌舞伎が人形浄瑠璃の翻案であり、浄瑠璃を省略なく収めた本を丸本と称するところから、丸本物(まるほんもの)と呼ばれる。

その後、福内鬼外(平賀源内)により江戸浄瑠璃が発生した。18世紀末から19世紀のはじめにかけて(寛政年間)、淡路仮屋出身の初世植村文楽軒は歌舞伎の人気に押されて廃れつつあった人形浄瑠璃の系統を引き継ぎ、高津橋(大阪市中央区)に座を作り再興させた。この劇場は1872年三世植村文楽軒(文楽翁)の時に松島(大阪市西区)に移り、「文楽座」を名乗る。大正期には文楽座が唯一の人形浄瑠璃専門の劇場となったことから、人形浄瑠璃の代表的存在となった。

1909年には文楽座は松竹の経営となり、松竹が文楽の興行を行うこととなった。文楽座はのちに御霊神社境内(大阪市中央区)に移転。焼失後の1929年には四ツ橋(大阪市西区)に新築移転したが、1945年の大阪大空襲で再度焼失。翌1946年に復興したが、1956年道頓堀弁天座跡(大阪市中央区)へ新築移転した。

1948年、松竹との待遇改善がからみ、文楽界は会社派の「文楽因会」と組合側の「文楽三和会」に分裂した。こうした内紛もあって戦後は興行成績が低迷。1963年、松竹は文楽から撤退し、文楽座も朝日座と改称。新たに大阪府・大阪市を主体に文部省(現・文部科学省)・NHKの後援を受けた財団法人文楽協会が発足し、文楽界は再統一され、再出発することとなった。

1984年には国立文楽劇場が完成し、松竹の撤退後も文楽を興行して大阪の文楽の定席的役割を担っていた道頓堀朝日座(旧文楽座)は長い歴史の幕を閉じた。

2003年、「人形浄瑠璃文楽」が「人類の口承及び無形遺産の傑作」と宣言された(無形文化遺産参照)。

2012年、有料入場者数が3年ぶりに10万人を超えた。劇場の開場25周年だった09年度以来[7]

2014年日本財団が人形浄瑠璃「文楽」の普及をめざし「にっぽん文楽」プロジェクトを立ち上げ、東京オリンピックが開催される2020年まで年2回の全国公演を実施することを発表した[8]


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