文明
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マヤ文明においても灌漑用の水路は概して規模は小さいものの各地で見つかっている[14]
文明の種類サミュエル・P・ハンティントンの『文明の衝突』の世界地図[15]

これまで独自の文化圏を持つとして文明に分類されたものをあげる。

メソポタミア文明

シリア文明

エジプト文明

インダス文明 (インドパキスタン文明)

中央アジア文明(バクトリア・マルギアナ複合)

スキタイ文明[13]   

ギリシア文明

ミノア文明

エーゲ文明

キクラデス文明

ミケーネ文明

ヘレニズム文明


ローマ文明

ヨーロッパ文明 (西欧文明)

東欧文明(東方正教会文明=ギリシア正教文明)    

イスラム文明

アフリカ文明

中国文明

黄河文明

長江文明

遼河文明


日本文明

メソアメリカ文明

オルメカ文明

テオティワカン文明

マヤ文明

トルテカ文明

サポテカ文明

ミシュテカ文明

タラスカ王国

アステカ帝国


アンデス文明

チャビン文化

ナスカ文化

モチェ文化

ティワナク文化

シカン文化

チムー王国

インカ帝国


文明論
文明論の概要
文明論の始まり
歴史学考古学は、歴史の始まりを画すものとして文明を眺めた。もう一つは、直接文明を対象にするのではなく、未開に関心を寄せた文化人類学であった。両分野は手法と対象は異なるものの、文明の始まりという同じものを見ようとする。フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー『ヨーロッパ文明史』、ヘンリー・バックル『イギリス文明史』などがある。近代ヨーロッパの考古学では人類の初期の古代文明のうち、特にエジプト文明の研究などから、「肥沃な三日月地帯」や「文明のゆりかご」(Cradle of civilization)という概念で研究した。福沢諭吉は、1875年(明治8年)、『文明論之概略』で西洋文明と日本文明を比較した[注 7]。哲学者の和辻哲郎は1935年(昭和10年)に『風土 人間学的考察』で、モンスーン(日本も含む)、砂漠牧場の三類型の風土において独自の文化が形成されたと論じた[18][19]
挑戦と応戦
20世紀、オスヴァルト・シュペングラーは、『西洋の没落』において、ヨーロッパ中心史観・文明観を批判した。アーノルド・J・トインビーは、文明とは、個人が強く識別する、最も広範囲なアイデンティティーに相当し、家族・部族・故郷・国家・地域などよりも広い、強固な文化的同一性であるとした[注 8]。そして、多くの文明[注 9]への、「挑戦と応戦」の過程で、文明は発生し、興隆し、やがて終末を迎える。文明の終末において、新たな文明を生む繭が生まれ、古い文明を崩し文明を再生する。例えば、キリスト教会が、崩壊してゆく古代ローマ文明の中で繭として成長し、新しい文明を築いたと主張した。

文明の舞台と環境

世界最初の文明は巨大河川での、灌漑であった。

1944年、カール・ポランニーは『大転換?市場社会の形成と崩壊』で資本主義社会の市場構造の分析をした。

1949年、フェルナン・ブローデルは『地中海』で文明における海の役割を際立たせた。

1957年(昭和32年)、梅棹忠夫は『文明の生態史観』で砂漠の決定的な重要性について指摘している[注 10]

1974年、イマニュエル・ウォーラーステインは、資本主義経済を史的システムとする『近代世界システム』を打ちだした。ブローデルの影響が濃い。

1988年(昭和63年)、梅棹は、環境に制約された文明は、やがて環境の制約を離れて環境に情報が取って代わり、情報を中心とした文明になると、『情報文明論』で述べた[20]

1997年(平成9年)、川勝平太は、インド洋から東シナ海を中心とした交易圏の中での日本の文明の役割を文明の海洋史観として提示した。

1997年、ジャレド・ダイアモンドは、文明を成り立たせる要素及び人間の考え方が文明の成立や構造にどのような影響を与えるか、『銃・病原菌・鉄―1万3000年にわたる人類史の謎』で考察した。

文明の遷移と系列
日本において、梅棹忠夫は文明の変遷の原理をしめした。梅棹は1957年(昭和32年)に著した『文明の生態史観[21]で、生態学的気候区で「ユーラシア両端、日本・欧州」と、「ユーラシア中央部」とに2分し、2つの文明の型で遷移が異なるとした。砂漠の遊牧民が農耕地帯を征服し、文明が瓦解し、大陸中央部は遷移が起きず振り出しに戻る。これに対し、遊牧民の征服をまぬかれた日本と欧州は、文明が破壊されず遷移を繰り返し、平行進化するとした[注 11]。文明とは、環境からの離脱の過程であり、装置群、制度群が次第に発達し、情報文明にいたるとする[注 12]。2000年(平成12年)頃、梅棹の文明論を批判した多くの「…史観」が現れた。川勝平太は、歴史主義を標榜し、梅棹には理論がないと批判した[注 13]。そして、川勝は、ヨーロッパと日本が、海洋交易や技術進歩で、大陸中央部を追い抜いていったとする『文明の海洋史観』を示した[注 14]。川勝の背後には、ブローデルの地中海があり、大きな影響を受けたと述べる。また、村上泰亮の日本の家社会を例とした、文明はいろいろな系の間の移行により発達の経路が異なるという、文明の多系史観が発表された。村上は、梅棹の遷移理論に対し、文明発展の経路が偶然により異なり、また系の間を移ることがあり、一度経路が決まると、次の分岐点まで文明の型は変わらないとした。
経済の構造
マルクス系のポランニーは、労働と土地は再生産出来ないが、資本主義の市場は再生産できない財を市場で取引するという特徴があり、資本主義体制の市場は普遍的なシステムではないと指摘した。そして、古代や未開民族の経済を調べ、いろいろな経済社会システムがあり、市場がなくとも経済構造を維持できることを示した。
その他、および時評としての文明論
安田喜憲の文明環境史観、森谷正規の文明技術史観、文明のエネルギー史観、嶋田義仁のアフロ・ユーラシア内陸乾燥地文明論がある[注 15]。「帝国」の概念と「文明」がオーバーラップするとしてノーム・チョムスキーは、500年にわたる西洋の帝国を経験的に記述した。アントニオ・ネグリマイケル・ハートは、共著『帝国』で、より理論的な分析を展開し、諸文明の同時代的な分析を構成している[注 16]


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