文化という概念がほぼ確立した19世紀には、文化や社会がどのように進化していくかという社会文化的進化の理論も同時に構築されつつあった。当時は文化は遅れた状態から進化するものであり、その進化の仕方は全ての文化において同一であると考えられていた。この理論を単系進化と呼ぶ。こうして成立した社会進化論は当時のヨーロッパの自文化中心主義と容易に結びつき、ヨーロッパの文化こそが最も進んだものであり、そのほかの文化は進化の先端たるヨーロッパ文化にいまだたどり着いていないという考え方が主流となった[20]。この理論は、他文化に属する人類を全くの他者ではなく、文化が異なるだけでともかくも同じ「人類」とみなすようになったという点でそれ以前に比べ改善が見られたものの[21]、植民地主義と強く結びつき、こうした遅れた地域を指導し、文化的に発展させ近代化させるということが帝国の役割であるという独善的な考えが強く押し出されるようになった[22]。このような観点から、野蛮・未開とされた人間を動物園の動物のように見せる人間動物園が流行した[23]。また、この理論に従い、各分野で文化の発展図式が構築された[20]。
後にフランツ・ボアズが文化相対主義の立場から猛烈に批判し、単一発展史観は現在では論じられることはなくなった[24]。 古い進化主義が否定されたのち、1940年代に入ると再び進化主義の要素が文化理論に取り入れられるようになり、ネオ進化主義が誕生した。これはレズリー・ホワイト
新進化主義
また、生態人類学においては、身体的な限界を越えて環境に適応するためのあり方として文化の生態的な側面が分析される。もちろん全ての文化的な行動について生態的な適応という観点から分析できると考えられているわけではないが、例えばマーヴィン・ハリスはカニバリズムを儀礼的な側面よりもたんぱく質の摂取という観点で考察する[26]。 文化相対主義の浸透などにより、現代においては文化によって他文化の排除を図ることは望ましくない態度とされ、むしろ文化の多様性が称揚される場面が多くなりつつある[27]。一方で、いまだそうした差異を排撃する地域も多い。その場合批判は当該地域の古くからの伝統文化に基づくこともあるが、従来さして重要とみなされてこなかった差異をクローズアップしたうえで多文化排撃の根拠とすることもみられる[28]。こうした動きは、他文化への干渉と批判を躊躇する態度によってしばしば助長される[29]。 例えば、女性割礼はしばしばイスラム教の慣習として語られるが、イスラム法やコーランにはそのような記載はないことから、いくつかのイスラム国家では行われていない慣習であり、イスラム法学者によって非イスラム的な慣習であることが発表されている[30]。実際に女性割礼を行いイスラムの文化であると主張していた集団が、イスラム法学者のそのような主張を聞くと、民族固有の文化であると根拠を切り替えて、多文化主義の立場から文化実践を継続することがある。 このように文化実践の主体の帰属先自体が、人々の都合によって変更される。 ある文化実践の由来や実態について、文献資料を用いる文化人類学者と現地の実践者の間に齟齬が生じることがある。 近代史研究は、自明とみなされてきた文化が比較的近年に「発明」されたものだということを明らかにしてきた。しかし「オセアニアンは過去における先祖の生活についての神話などを、現地の人々は政治的シンボルとして発明している」という文化人類学者の見解[31]は、現地の人々にとって「文化人類学者は祖先の文化をまったく知らず、自己規程の力さえ奪おうとしている」という傲慢な態度にほかならず、反発を受ける[32]。
文化についての語り
誰の文化なのか
文化の権利