文化勲章
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幼年期に母国日本を離れており作品を英語で書いているイシグロが、日本文化への貢献が顕著かどうか解釈が分かれるため、慣例通り文化勲章が授与されるかは注目された[10]。なお、文部科学省はイシグロが文化勲章の選考から漏れた理由をコメントしていない[8]。2018年にイシグロは旭日重光章を受章した。
文化功労者との関係

文化勲章には金品等の副賞は伴わない。これは日本国憲法第14条の規定(勲章への特権付与の禁止)によるものであるが、文化の発展向上への貢献者に報いたいとの意図により、文化勲章とは別制度として1951年(昭和26年)に文化功労者年金法が制定され、前年度までの文化勲章受章者のうち存命者を一律に「文化功労者」として顕彰するとともに、以後も文化勲章受章者は同時に文化功労者でもあるように運用することとした。これにより、文化勲章受章者は、文化功労者年金法に基づく終身年金(現在は年額350万円)が支給される。

制度上は別のものであるとの制度設計であっても、実際の運用上において文化勲章受章者と文化功労者とを完全に同一にすると憲法の規定に抵触するおそれがあるため、文化勲章受章者とは別に、文化勲章受章者以外にも文化功労者として顕彰する者を選定する運用が行われてきた。1979年(昭和54年)度以降は、文化勲章受章者は原則として前年度までに文化功労者として顕彰を受けた者の中から選考するように改められた。
辞退者

河井寛次郎(陶芸)- 1955年(昭和30年)名利を求めない信条を貫いて辞退。河井は自身の作品にも銘を入れないほどこの姿勢に徹底しており、人間国宝芸術院会員への推薦も同様に辞退している。

熊谷守一(洋画)- 1968年(昭和43年)「これ以上人が来てくれては困る」と辞退。熊谷は孤高の画家として有名で、来客を一貫して避けていた。

大江健三郎(小説)- 1994年(平成6年)ノーベル文学賞の受賞発表を受けて文化勲章の授与と文化功労者としての顕彰が決定したが、「民主主義に勝る権威と価値観を認めない」と文化勲章そのものを否定して受章を拒否した[11]。そして、ノーベル文学賞の授賞式には出席し、スウェーデン国王からノーベル文学賞を直接授与された[12]。さらに、数々の著名人が叙勲を拒否したフランスレジオンドヌール勲章は拒否せず受章した[13]。レジオンドヌール勲章の叙勲式にも出席し、「最後の作品になろう長編を書き始めた時に、ちょうど200年前に創設された威厳ある章を受章できたのは幸運の予兆で励みになる」とスピーチした[14]

杉村春子(舞台演劇)- 1995年(平成7年)「文化勲章は一番大きい勲章で、今後も出演を続けたいのに、もらえばおしまいになるような気がする」「戦争中に亡くなった俳優を差し置いてもらうことはできない」と辞退[15]

公になっている辞退者は以上の4名である。
追贈

法令は対象者が死去した後に文化勲章を追贈することを禁じてはいない。ただし勲章はその佩用を前提にした栄典であるため、授与は生前の日付(つまり死去日)に遡って行われる。過去に以下の2例の追贈例がある。

六代目尾上菊五郎(歌舞伎)- 1949年(昭和24年)7月10日死去。六代目は歌舞伎役者として初の受章となった。

牧野富太郎(植物学)- 1957年(昭和32年)1月18日死去。牧野は第一回文化功労者のうち文化勲章を受章していない数少ない者のうちの一人だった。

その後半世紀以上にわたって文化勲章の追贈はその例が絶えている。しかし死去した者を叙勲の対象から外しているのかどうかについては公式の発表がなされてはいない。

なお、授与が内定していたにもかかわらず、本人が発表の前に急死したため、結果的に追贈という形になった例が2例ある。

荻須高徳(洋画) - 1986年(昭和61年)10月14日死去。授与は10月初旬には内定していたが、荻須はパリ在住で、10月14日アトリエで制作中に倒れてそのまま死去したため、叙勲決定の連絡はつかなかった。

牧阿佐美(舞踊) - 2021年(令和3年)10月20日死去。授与内定が死没前に行われ、本人に対して政府担当者より内定の伝達が行われたのは死没前日の10月19日であったという[16]

例外的な授与

1969年(昭和44年)10月31日、3か月前に人類初の月面着陸を果たしたアポロ11号に搭乗した宇宙飛行士である、ニール・アームストロングマイケル・コリンズバズ・オルドリンの3名が、各国歴訪の一環で来日した。同日午後、総理官邸を表敬訪問したこの3名に対し、佐藤栄作総理は自ら文化勲章を手交した。

彼らにはすでにアメリカ合衆国の最高勲章である大統領自由勲章が授与されていた。また、歴訪した諸外国の中にもそれぞれの最高勲章や高位の勲章を授与した例が多く、日本国政府はその対応に苦慮した。日本の栄典制度では、政府高官や将官でもない彼ら[注 3]に対して勲一等勲二等を授与することは不可能であり、かといって日本の制度に基づいた等級の勲章を授与することは、他国の処遇と著しくバランスを欠くことになるためである。そこで窮余の一策として、単一等級の文化勲章を授与したのである。

彼らに対する授与は、佐藤が閣議で決め文部省は一切関与していない・文化功労者顕彰がされていない・宮中伝達式を行わなかった・外国人に対するものだったことなど、異例ずくめのものであった。しかも、受章者のうち2名(コリンズとオルドリン)が現役軍人であるということから、各方面から批判や疑問の声が沸き起こった。

なお、外国籍の者としてはその後、1978年に理論物理学者の南部陽一郎が、2008年には日本文学研究者のドナルド・キーンが、2014年には物理学者の中村修二が、2021年には物理学者の眞鍋淑郎が受章している。南部は1970年に、中村は2005年に、眞鍋は1975年にアメリカに帰化した日系アメリカ人一世。キーンは在日アメリカ人であったが、受章後の2012年に日本に帰化した。


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