文仁親王妃紀子
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生い立ち

1966年昭和41年)9月11日川嶋辰彦和代夫妻の長女として静岡県静岡市恩賜財団済生会静岡済生会総合病院(当時ェ仁親王が総裁)にて誕生。

父がペンシルベニア大学大学院留学したことから、一家で渡米。6歳までアメリカ合衆国ペンシルベニア州で過ごす。1969年(昭和44年)9月、同州フィラデルフィアのローズモント大学付属ローズモント・トゥリニティー・スクールに入園。この間に自由学園幼児生活団通信グループを卒園。1970年(昭和45年)9月、同州のセント・メリーキンダーガーデンに入園。1971年(昭和46年)9月、フィラデルフィア市立ヘンリー・C・リーエレメンタリースクール(Henry C. Lea Elementary School)に入学。

1973年(昭和48年)父の辰彦が学習院大学助教授に就任したため一家で帰国し同年6月、静岡市立中田小学校の一年に編入学。同年9月には新宿区戸山へ引っ越し新宿区立早稲田小学校に編入学。1975年(昭和50年)4月には、 豊島区目白の学習院職員寮に引っ越し豊島区立目白小学校三年に編入する。翌1976年(昭和51年)、学習院初等科へ編入。しかし、翌年の1学期を終えた段階で、父がオーストリアウィーン郊外のニーダーエスターライヒ州ラクセンブルクにある国際応用システム分析研究所(International Institute for Applied Systems Analysis、IIASA)の主任研究員に招かれたため、一家で渡墺。約2年間を同地で過ごす。1977年(昭和52年)8月、ウィーンのアメリカ・インターナショナル・スクール・オブ・ヴィエンナ(The American International School of Vienna、AIS)六年に編入。英語に磨きをかける一方、ドイツ語も日常会話に困らない程度にまでなった[4]

1979年(昭和54年)9月、日本へ帰国。学習院女子中等科へ編入し、学習院女子高等科に進む。女子高等科時代には、クラスで選ばれて厚生委員を務め、街頭に立ってハンセン病患者をはじめ恵まれない人たちへの募金を呼びかけたり、身体障害者の人たちが作った絵葉書をすすめたりする活動に取り組んだ。

1985年(昭和60年)、学習院大学文学部心理学科へ入学。大学構内の書店で、1年先輩の文仁親王と出会う。以降、サークル活動を通して交際を深めた。1986年(昭和61年)6月26日に、文仁親王から求婚を受けるが即答は避けた。早い段階から宮中にも招かれ、皇太子明仁親王(当時)らとも面会していた。文仁親王が主宰するテニスサークルでは、皇太子明仁親王、美智子妃(当時)も参加してダブルスの試合に興じ、楽しんだという。明仁親王は、「キコちゃん」と気さくに呼びかけたり軽食をすすめたりするなど、ごく自然に一家に溶け込めるよう心配りをしたという[5]

大学では文仁親王との出会いの場となった自然文化研究会のほか、心理研究会、手話サークルに所属。手話は、文化祭で手話劇を観て感動したことをきっかけに始めた。言葉が不自由な学生に付き添って講義を受け、通訳をしたりノートを取ったりもしていた。身障者の車椅子を押したり、自閉症の子どもの面倒を見るなどのボランティア活動も行っている。

また、大学内外の国際交流団体で留学生の世話をしたり、アジア問題など興味を持つ分野の講義を、他大学で聴講したこともあった。結婚の儀の当日、自宅を出発する際に

婚約内定の報道がなされた際、社内の表記基準に従い新漢字の「川島」と表記した報道機関も存在したが、宮内庁関係者などからの強い要望もあり、戸籍名の「川嶋」に表記を改めた[6]

1989年平成元年)、学習院大学を卒業し同大学院人文科学研究科へ進学、社会心理学を専攻する。同年8月26日、婚約内定が報道される。9月12日に開かれた皇室会議において可決され、同日午後、文仁親王同席の記者会見を行なった。平成改元後初の慶事であり、若々しい二人の結婚は国民から祝福された[7]昭和天皇の喪が明けた1990年(平成2年)1月12日に納采の儀が執り行われ、正式に婚約が成立した。

当時の住居が学習院大学教職員用の共同住宅だったことから、マスコミは「3LDKのプリンセス」[8]「一般家庭から誕生した現代のシンデレラ」と彼女を呼んだ。

同年、6月29日に結婚の儀が行なわれ、これに伴い戸籍から消除され、皇族譜に記載される。
秋篠宮妃

1991年(平成3年)10月23日眞子内親王が誕生。1994年(平成6年)12月29日には、佳子内親王誕生。

1994年(平成6年)4月に財団法人結核予防会(現在は公益財団法人結核予防会)の総裁に就任し、結核予防全国大会、結核予防関係婦人団体中央講習会、結核国際研修の研修生との懇談会などに臨席している。2018年(平成30年)10月にはオランダで開催された「第49回肺の健康世界会議」に出席し、国際結核肺疾患予防連合(UNION)から名誉会員称号を授与された。また、2010年(平成22年)10月1日には社会福祉法人恩賜財団母子愛育会の総裁に就任し[9]、愛育班員全国大会などに出席するとともに各地域を訪問し、愛育班員の活動を励ましている。2018年(平成30年)12月には、タイで開催された「第11回母子手帳国際会議」に出席した。さらに、日本赤十字社名誉副総裁として日本赤十字地方大会などの行事に臨席している[10]

2004年(平成16年)からは皇室典範に関する有識者会議により女性・女系天皇容認の議論が進む中、2006年(平成18年)2月7日、紀子妃の懐妊がスクープされる。その後2月25日に宮内庁から懐妊が正式発表された。

同年7月18日、部分前置胎盤による大量出血の危険性を考慮して、皇族としては初となる帝王切開による出産が実施されることが宮内庁より発表された[11]。特に、皇后(現在の上皇后)は紀子妃の身を非常に案じたと言う。8月16日より、東京都港区愛育病院に入院。

9月6日午前8時27分、悠仁親王を出産。身長48.8 cm、体重2558g[12][13]。男子の誕生は夫である秋篠宮文仁親王以来41年ぶり。これによって、当面の男系断絶は回避された。なお、夫妻で「国民の役に立つならば」と臍帯血の提供を申し出ていたことが話題となる。2014年(平成26年)、メキシコシティにて

2009年8月21日から28日にかけて秋篠宮同妃はベアトリックス女王及びオランダ政府の招待により、オランダを公式訪問した。夫妻の訪問は日蘭通商400周年の機会を捉えたものであり、滞在中、日蘭通商400周年記念式典へ出席の他、バルケネンデ首相表敬、地方視察、(アムステルダムバルネフェルト、アッペルドールン)等の日程を精力的にこなした。日蘭両国は、2008年の「外交関係開設150周年」に続き、2009年は「日蘭通商400周年」と2年にわたって周年を祝しており、各地で周年行事が開催されていた。


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