文人
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最後の文人として、兪?呉昌碩が挙げられる。
隠逸

文人は隠逸への強い志向を持つとされる。またこの隠逸そのものの考え方も時代的変遷が著しいが、大まかに六朝以前を儒家的隠逸、以降を儒家的隠逸と道家的隠逸のせめぎ合いというように分けることができる。両者の間には隠逸に対する本質的な考え方の変移がある。

儒家的隠逸とは儒教的な倫理を基盤とし、隠逸そのものは目的を達成するための手段としているところに特徴がある。儒家のバイブルといえる『論語』に「天下道有れば即ち見(あら)われ、道無ければ即ち隠る」とある。この「道」とは士人の究極の目的である経世済民を為すことであり、それに相応しい官位に就くことである。もしこの目的が達成できない状況にあるとき、たとえば官位に就いてもその道がないとき、または道はあっても官位に就けないときは自らの意思で隠逸すべきであると説かれている。『論語』にはこのような隠逸についての記述が多数確認でき、また『孟子』にも同様の記述が見られる。ほとんどの士人は高い志をもち学問に励んでいるが、その中で経世済民に相応しい官位に就ける士人は至極わずかである。つまり大多数の士人は志を得ることが出来ず、なんらかの形で挫折し不満をもつ。このような不満が官僚社会に蔓延すれば闘争につながり、結果として民を苦しめることになる。であるからこそ、志を得ざる士人(文人)が隠逸することは経世済民するに等しく、倫理にかなう行為()である。孔子が「古の賢人」と讚えた伯夷は志を貫き、自ら官を退き隠逸し、薇(わらび・ぜんまい)を食べながらついには餓死した士人であった。また文人の祖といわれる屈原はその代表作である『離騒』を遺しているが、これは国を守るために志を貫き隠逸したことを詠じた長編詩である。伯夷や屈原の身の処し方は後世の士人(文人)たちに大きな影響を及ぼした。ここでの隠逸とは山林などに身を隠すような隠遁と異なり、単に官を退くことと捉えてよい。

一方、道家的隠逸であるが、倫理(善)のためでなく真理の探求や体得の手段としての隠逸、あるいは隠逸そのものが目的化したといえる。また文人が文学や芸術に耽溺するための物理的な時間を得るために隠逸を志向したという側面もある。

前述のように六朝のはじめ、儒教的倫理規範の束縛からわずかに自由になった文人は道家的思想に新たな価値観を見いだそうとした。そうした中、阮籍?康に代表される竹林の七賢をひとつの理想形とし、隠逸そのものを理念とする思潮が生まれる。しかし、「小隠」ともいわれる隠逸スタイルは官位を捨て山林などに隠棲することであり、そもそも自らの生活のベースである特権階級をも維持できなくなることから実践することは非常に難しかった。

すぐさまこれに替わって「朝隠」と呼ばれる隠逸スタイルが生まれる。官位に就いていながら精神は隠逸するという方法なのだが、内部矛盾を孕んでいるかのようでもある。経世済民という絶対倫理のみに価値をおかず、哲学的・宗教的真理にも重きを置く文人が増えたが、結果としてかれらは官僚としての本来的な職務を疎んじなおざりすることになる。

唐宋になり公私の区別が使い分けられるようになると、「中隠」という隠逸スタイルが現れる。公的には経世済民をし、私的生活で真理を探究し、文学や芸術に耽溺する。陶淵明の隠逸生活が最初の中隠とされるが、近世的文人の祖とされる白居易がはっきり中隠を自覚して実践した。蘇軾などの北宋の文人はこの中隠を理想とした。

明清となると文人は市民生活を行っており、元より経世済民の志がなく官にも就かない場合が多い。これを「市隠」として隠逸のひとつのスタイルとすることもできる。
琴棋詩書画詳細は「琴棋書画」を参照銭選『蘭亭観鵝図巻』 文人画。この作品では詩と書、画が一体となっている。

中国文人は琴棋書画に代表されるような芸能を遊戯として嗜んだ。このほかにも、詩や篆刻などが文人の芸としてあげられよう。詩書画をよくする者を三絶と称賛したように多芸をよしとする風潮があり、絵画に詩を書して落款し印章を捺すという複数の技芸を総合した文人画のような芸術が生まれた。しかし、文人達はこれらの芸を飽くまで自らが文雅を楽しむための余技として捉え、他者から職業的な営みと見られることを極度に嫌った。金銭を目的とすることは雅を尊ぶ文人の価値基準には堪えない俗物的な行為とされたからである。やがてたとえ権力者であろうとみだりにこれらの芸を披露すべきものではないという気骨を生んだ。このような反骨精神をもった文人の逸話がいくつか伝えられている。
竹林の七賢のひとり、?康は琴と詩の才能で知られた。

とともに『詩経』にもみられるほど古い弦楽器であるが、孔子やその門人たちが琴を奏でることを好み、楽器の中でももっとも重用していたことが『論語』や『礼記』にみえ、また『荘子』にもその記述がある。儒学の祖である孔子らのこの風習はやがて儒者が琴をもっとも尊び愛用することに繋がった。このような琴の流行は南北朝時代に最高潮になりやがて衰退するが、近世になっても文人の嗜むべき随一の楽器とされ続けた。
棋(囲碁)詳細は「囲碁の歴史」を参照

棋は既に『論語』の中に孔子の弁として述べられるほど古い遊びである。「博?」のうちの「?」が囲碁を差しているが「博」の方はスゴロクの事で『論語』ではこの二つが同等に扱われている。

をもって文人の芸とすることの妥当性について検討の余地がある。というのも詩は文人というより士大夫(士人)の欠くべからざる基礎的教養であり、芸とするには重すぎる。漢代以降の中国伝統社会において詩とは士大夫の理念の表出であり、経世済民の責務を遂行する上で必須の能力と見なされていた。科挙の最高クラスである進士科の試験科目でも詩作の能力が特に重視されている。魏文帝は「文章は経国の大業、不朽の盛事なり」と宣言しているがこの「文章」には詩を含むことは間違いなく、詩作が国家の一大事であることを端的に示している。中国における詩とは、単に抒情的な韻文というだけでなく、士大夫の理念の表現様式であり、経世済民の手段であるという特殊な要素を見逃しては語れない。著名な詩人にして文人である白居易はその著『新楽府』において自らの詩作は世相を風刺し政治に影響を与えることにその本分があると述べている。士大夫の理念を実践した好例といえる。このように詩が特別な意味をもっているにも拘らず、「詩書画三絶」というように他の技芸と並立されるところをみると、文人の芸事には自ずと詩と同様の表現への希求が内在するものとも受け止められる。
書詳細は「中国の書道史」および「中国の書論」を参照

文人にとって書芸はもっとも身近な芸であり、これをしない文人はいないといっても過言ではない。また名だたる能筆家のほとんどが文人であるともいえる(王羲之初唐の三大家顔真卿宋の四大家など)。書することは文人の職務であり、天分である。前漢には小篆や古隷から「八分」、古隷から「章草」への変容が生じたが、これは文人の美意識の体現といえる。後漢末には八分の筆法を簡略化した「真書」すなわち楷書が誕生し、さらに行書が生まれた。いずれも同様に書芸の対象となった。元来、「書」とは書籍を示す文字だったが後漢の頃に書芸の意味に転じた。このころに実用の書から美術の書への関心の移行、つまり書の芸術性を重んじる思潮が顕著にみられ、書芸を論ずる文章(書論)が現れ出した。

文人の画芸というと文人画が有名である。これは明末の董其昌による画論『画禅室随筆』に「文人の画は王維から始まる」として唐代の王維をその始祖としたことによる。しかし、文人の画芸はさらにその淵源を遡ることができる。宋以降にようやく文人の遊戯として定着した。画芸について晋の顧ト之の『論画』、宋代の宗炳の『画山水序』・王微の『叙画』、謝赫の『古画品録』などの画論でその理論が模索され、やがて気韻を貴ぶようになる。文人画は飽くまで素人の余技であり、その精髄とも呼べる「気韻」は広く文人の間に受け入れられ、宋元以降、文人の趣味生活に深く浸透していった。
筆墨紙硯詳細は「文房四宝」を参照文房四宝明代、陳洪綬『南生魯楽図』に描かれた文房四宝

文房趣味とは、文房(書斎)を中心に発展した中国文人の趣味である。文房清供あるいは文房清玩という場合もほぼ同義である。

本来的に読書人である文人は文房において起居し、同時に趣味生活を実現する拠点とした。「明窓浄几」と表現されるように明るく清浄な書斎の環境が理想とされ、この限られた空間はひとつの小宇宙と見做され、そこに関わる文物のほとんどが趣味嗜好の対象となった。この萌芽は漢代にまで遡れるが、六朝から唐にかけて発展し、宋代に骨格が築かれ、元代では一旦衰退するが、明代において隆盛となり、清代までその余波が続いた。六朝および唐においては華麗にして典雅な貴族趣味が好まれたが、宋代になると庶民的な質素さを基調とする趣致が好まれるようになる。この質朴とも言える趣致は道教の清浄の概念に由来し、貴族的な雅趣と庶民的な野趣を併せ持つ「清」という価値で表現される。この宋代に生まれた清(清逸・清楚)なる趣致は後代まで受け継がれて発展していき、単なる遊戯であるはずの趣味を芸術の域にまで引き上げた。

文房趣味の代表格としてが挙げられる。これらは文房具の中心であるので文房四宝・文房四友とも称される。単なる文房具であるはずが、特に宋代以降になると鑑賞・蒐集・愛玩・収蔵の対象物となり、生産地や工人がブランド化されその優劣が盛んに論じられるようになる。

しかし、文房趣味の精髄をと問われれば、文物の鑑賞に終始する好事家であるばかりでなく、文房生活の享楽の追究であるといわなければならない。文房では欠かせない喫茶の習慣は味覚嗅覚までに雅俗認識が及んでいるが、一方で生活の質を向上させ、修養にも通じているといえる。明末の文震享の『長物志』(訳注は、平凡社東洋文庫全3巻)は、この趣味をもっともよく体系化しており、室盧・花木・水石・禽魚・書画・几榻・器具・衣飾・舟車・位置・蔬果・香茗の12門に分類している。文房趣味がファッション(=衣飾)やインテリア(=位置)まで及んでいたことが注目される。このほかに明初の曹昭の『新増格古要論』・明末の張応文の『清秘蔵』・万暦年間の高濂の『遵生八戔』・屠隆の『考槃余事』などに文房趣味が論じられている。専門書も多く、挿花盆栽などの園芸についてや金魚の飼育について述べられたものがある。


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