文人
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元末から明清の代表的な文人として、文人画で優れた業績を遺した沈周文徴明唐寅徐渭などが挙げられる。

清末に科挙が廃止されてからは、伝統的な意味での文人はおのずから消滅していった。最後の文人として、兪?呉昌碩が挙げられる。
隠逸

文人は隠逸への強い志向を持つとされる。またこの隠逸そのものの考え方も時代的変遷が著しいが、大まかに六朝以前を儒家的隠逸、以降を儒家的隠逸と道家的隠逸のせめぎ合いというように分けることができる。両者の間には隠逸に対する本質的な考え方の変移がある。

儒家的隠逸とは儒教的な倫理を基盤とし、隠逸そのものは目的を達成するための手段としているところに特徴がある。儒家のバイブルといえる『論語』に「天下道有れば即ち見(あら)われ、道無ければ即ち隠る」とある。この「道」とは士人の究極の目的である経世済民を為すことであり、それに相応しい官位に就くことである。もしこの目的が達成できない状況にあるとき、たとえば官位に就いてもその道がないとき、または道はあっても官位に就けないときは自らの意思で隠逸すべきであると説かれている。『論語』にはこのような隠逸についての記述が多数確認でき、また『孟子』にも同様の記述が見られる。ほとんどの士人は高い志をもち学問に励んでいるが、その中で経世済民に相応しい官位に就ける士人は至極わずかである。つまり大多数の士人は志を得ることが出来ず、なんらかの形で挫折し不満をもつ。このような不満が官僚社会に蔓延すれば闘争につながり、結果として民を苦しめることになる。であるからこそ、志を得ざる士人(文人)が隠逸することは経世済民するに等しく、倫理にかなう行為()である。孔子が「古の賢人」と讚えた伯夷は志を貫き、自ら官を退き隠逸し、薇(わらび・ぜんまい)を食べながらついには餓死した士人であった。また文人の祖といわれる屈原はその代表作である『離騒』を遺しているが、これは国を守るために志を貫き隠逸したことを詠じた長編詩である。伯夷や屈原の身の処し方は後世の士人(文人)たちに大きな影響を及ぼした。ここでの隠逸とは山林などに身を隠すような隠遁と異なり、単に官を退くことと捉えてよい。

一方、道家的隠逸であるが、倫理(善)のためでなく真理の探求や体得の手段としての隠逸、あるいは隠逸そのものが目的化したといえる。また文人が文学や芸術に耽溺するための物理的な時間を得るために隠逸を志向したという側面もある。

前述のように六朝のはじめ、儒教的倫理規範の束縛からわずかに自由になった文人は道家的思想に新たな価値観を見いだそうとした。そうした中、阮籍?康に代表される竹林の七賢をひとつの理想形とし、隠逸そのものを理念とする思潮が生まれる。しかし、「小隠」ともいわれる隠逸スタイルは官位を捨て山林などに隠棲することであり、そもそも自らの生活のベースである特権階級をも維持できなくなることから実践することは非常に難しかった。

すぐさまこれに替わって「朝隠」と呼ばれる隠逸スタイルが生まれる。官位に就いていながら精神は隠逸するという方法なのだが、内部矛盾を孕んでいるかのようでもある。経世済民という絶対倫理のみに価値をおかず、哲学的・宗教的真理にも重きを置く文人が増えたが、結果としてかれらは官僚としての本来的な職務を疎んじなおざりすることになる。

唐宋になり公私の区別が使い分けられるようになると、「中隠」という隠逸スタイルが現れる。公的には経世済民をし、私的生活で真理を探究し、文学や芸術に耽溺する。陶淵明の隠逸生活が最初の中隠とされるが、近世的文人の祖とされる白居易がはっきり中隠を自覚して実践した。蘇軾などの北宋の文人はこの中隠を理想とした。

明清となると文人は市民生活を行っており、元より経世済民の志がなく官にも就かない場合が多い。これを「市隠」として隠逸のひとつのスタイルとすることもできる。
琴棋詩書画詳細は「琴棋書画」を参照銭選『蘭亭観鵝図巻』 文人画。この作品では詩と書、画が一体となっている。

中国文人は琴棋書画に代表されるような芸能を遊戯として嗜んだ。このほかにも、詩や篆刻などが文人の芸としてあげられよう。詩書画をよくする者を三絶と称賛したように多芸をよしとする風潮があり、絵画に詩を書して落款し印章を捺すという複数の技芸を総合した文人画のような芸術が生まれた。しかし、文人達はこれらの芸を飽くまで自らが文雅を楽しむための余技として捉え、他者から職業的な営みと見られることを極度に嫌った。金銭を目的とすることは雅を尊ぶ文人の価値基準には堪えない俗物的な行為とされたからである。やがてたとえ権力者であろうとみだりにこれらの芸を披露すべきものではないという気骨を生んだ。このような反骨精神をもった文人の逸話がいくつか伝えられている。
竹林の七賢のひとり、?康は琴と詩の才能で知られた。

とともに『詩経』にもみられるほど古い弦楽器であるが、孔子やその門人たちが琴を奏でることを好み、楽器の中でももっとも重用していたことが『論語』や『礼記』にみえ、また『荘子』にもその記述がある。儒学の祖である孔子らのこの風習はやがて儒者が琴をもっとも尊び愛用することに繋がった。このような琴の流行は南北朝時代に最高潮になりやがて衰退するが、近世になっても文人の嗜むべき随一の楽器とされ続けた。
棋(囲碁)詳細は「囲碁の歴史」を参照

棋は既に『論語』の中に孔子の弁として述べられるほど古い遊びである。「博?」のうちの「?」が囲碁を差しているが「博」の方はスゴロクの事で『論語』ではこの二つが同等に扱われている。

をもって文人の芸とすることの妥当性について検討の余地がある。というのも詩は文人というより士大夫(士人)の欠くべからざる基礎的教養であり、芸とするには重すぎる。漢代以降の中国伝統社会において詩とは士大夫の理念の表出であり、経世済民の責務を遂行する上で必須の能力と見なされていた。科挙の最高クラスである進士科の試験科目でも詩作の能力が特に重視されている。魏文帝は「文章は経国の大業、不朽の盛事なり」と宣言しているがこの「文章」には詩を含むことは間違いなく、詩作が国家の一大事であることを端的に示している。中国における詩とは、単に抒情的な韻文というだけでなく、士大夫の理念の表現様式であり、経世済民の手段であるという特殊な要素を見逃しては語れない。著名な詩人にして文人である白居易はその著『新楽府』において自らの詩作は世相を風刺し政治に影響を与えることにその本分があると述べている。士大夫の理念を実践した好例といえる。このように詩が特別な意味をもっているにも拘らず、「詩書画三絶」というように他の技芸と並立されるところをみると、文人の芸事には自ずと詩と同様の表現への希求が内在するものとも受け止められる。
書詳細は「中国の書道史」および「中国の書論」を参照

文人にとって書芸はもっとも身近な芸であり、これをしない文人はいないといっても過言ではない。また名だたる能筆家のほとんどが文人であるともいえる(王羲之初唐の三大家顔真卿宋の四大家など)。書することは文人の職務であり、天分である。前漢には小篆や古隷から「八分」、古隷から「章草」への変容が生じたが、これは文人の美意識の体現といえる。後漢末には八分の筆法を簡略化した「真書」すなわち楷書が誕生し、さらに行書が生まれた。


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