1969年(昭和44年)4月13日、兄は、1月に購入していた登山用ナイフ2本(刃体の長さ14.3センチメートル)の皮製の鞘を背広の内ポケットに縫い付けた上で、上京した[6][18]。後の兄自身の供述によると、両親の勧告により兄弟は和解することとなったが、兄は自分優位での決着を望み、弟の態度によっては半殺しにしてもいいと、登山ナイフを買ったのだという[4][5][6]。
東京に着いた兄は、翌14日昼過ぎ、弟にあてて、午後6時半安田講堂前に来い、との決闘状ともいえる電報を打つ[6][19]。その日の夕刻、安田講堂前で会った兄弟であったが、父と選挙区から帰京して間もなかった弟が決闘の延期を申し入れたため、兄は弟を連れて、予約していた本郷の旅館へと戻った[20][21]。 兄弟は、旅館の部屋で食事をし、飲酒しながら、次の決闘をいつにするかといった話をしていたが、午後11時ころ、弟が兄を挑発[3][4][5][20]。逆上した兄は、所携の登山ナイフで弟を刺して殺害した[3][4][5][20]。午後11時15分ころ、旅館が警察に通報し、警視庁本富士警察署の警察官が現場に急行したときには、弟はすでに死亡していた[4][6][8][22]。弟の体には17か所に及ぶ刺創があり、心臓に達する刺創が致命傷となっていた[6][22]。現場には、血のついた登山ナイフを持った兄がおり、兄は警察官に自分の名を名乗ってナイフを差し出し、直ちに逮捕された[4][6][8][22]。 兄は、殺人及び銃砲刀剣類等所持取締法違反で東京地方裁判所に起訴された[3]。第1回公判で、兄は殺害の計画性を否定、弁護人は精神鑑定を求め、地裁は鑑定を認めた[3]。精神鑑定をめぐり争われた事件であったが、1971年(昭和46年)3月3日、東京地裁は、兄の刑事責任能力を認めたものの、心神耗弱であったとして懲役6年(求刑懲役10年)の判決を言い渡した[23][24]。 代議士の父はしばらく謹慎していたが、地元への報告会の後、同情の声が起こり、次期選挙への出馬を求める2万人超の署名が集まった[24][25]。父は、年末の選挙に出馬、家族の不祥事の謝罪行脚を行い、当選した[23][24]。 この事件については、戦前の父権主義が薄れ、長幼の序といった価値観も失われる一方、1960年代のこのころには、激化した効率優先の競争原理が学校や家庭にも入りこみ、このような時代背景が兄弟を争わせ殺人事件にまで発展したとの分析がある[26][27]。そのような事件の具体例として、この事件とともに、1964年(昭和39年)7月15日、父が大学教授、母が検事という家庭で、高校生の長男が、同じく高校生の次男の頭を鉈で割って殺害した事件が挙げられている[27][28]。 また、秩序を守り従うという兄の信念が、弟のみならず当時の学園紛争によって破壊されたことが事件の背景にあるとの分析や[24]、秩序派というべき兄に対し、暴力派というべき全共闘と弟が重なって見えたとの分析もなされている[29]。
事件の発生
刑事裁判
選挙への影響
事件に対する分析
脚注^ 『戦後史大事典』179頁
^ a b 『<物語>日本近代殺人史』310頁
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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