1974年、徳間康快が大映を買収し、社長就任の会見で「我が大映としては井上靖先生の『敦煌』と司馬遼太郎先生の『坂の上の雲』を映画化する」と発表をした[6][7]。原作が1959年から『群像』(講談社)で連載されており、徳間は愛読していた[7]。倒産した大映は劇場チェーンを失っており、生きていくためには海外マーケットを狙った大作を作らなければならないという狙いだった[6]。徳間は10年以上かけて買い集めた日本刀コレクションの中から、最も大切にしていた一振を持ち井上を訪ね、それを土産に映画化権獲得を切り出すものの、原作の映画化権は井上の小説『闘牛』のモデル・小谷正一に渡っていた[6]。小谷は小林正樹と製作を進め、小林が既に脚本も完成させていたものの、中華人民共和国(以下、中国)から撮影許可が全く下りず、北海道で撮る計画を立てたりし苦しんでいた[6]。徳間と小谷の共通の友人である東映の岡田茂は「徳間は『敦煌』を日中合作で映画化してみせると言っている。やらせてやってくれないか」と小谷を説得し、金銭的な契約は何もなく映画化権は徳間へ移った[6]。小林と打ち合わせを進めながら、徳間は莫大な製作費を用意するため奔走。1972年から日中映画交流に着手し、実現の機会を待った[6]。
徳間康快は最も中国との貿易に力を入れていた丸紅へアプローチし、社長の春名和雄に熱弁を振るって5億円の出資を引き出した。電通や松下グループなどと交渉を持ち、資金面でも映画化実現に一歩一歩近づいていった[6]。しかし徳間と小林正樹が芸術的な部分で平行線を辿り、共通の友人である佐藤正之を間に立てて、小林を降板させる[6]。「あれだけ『敦煌』の映画化に燃え、人生すら賭けていた小林正樹を切るとは」と徳間は批判された[6]。
1974年4月3日、東京銀座の三笠会館で深作欣二のメガホンによる本作の製作発表が行われた[6][8]。徳間・深作のほか、「石橋をたたいてもまだすぐには渡らない」とも言われた東宝の松岡功が同席したことで、「本作は本当に出来るようだ」と報道された[8]。深作は『上海バンスキング』を監督する前に頼まれ、引き受けたと自著で述べている[9]。敦煌へロケーションハンティングに行く途中で上海へ寄り、当地の映画撮影所と協力を構築しながら、本作へ繋げられたらと思案[9]。軍馬の手配、夏・秋・冬の雪が大地を覆っているところを三つは撮りたいと考え、『上海バンスキング』がクランクアップした後に本作の準備にとりかかり、朱王礼に千葉真一、趙行徳に真田広之をキャスティングしていた[9]。しかし馬が足りないことや、原作の人肉市場でウイグルの王女が人身売買する個所の歴史的事実があるかないかで徳間康快らと対立[9]。同時期に深作は東映から3ヶ月で映画『火宅の人』を撮らないかというオファーを受ける[9]。本作の準備に時間がかかると踏み、一時的に離れるが、さらにこれが徳間らと気まずくなり、雰囲気を悪化させてしまった[9]。このまま自分が撮ると迷惑がかかると深作は思い、映画『未完の対局』を監督した佐藤純彌なら中国の人たちと信頼関係があるからと、本作をバトンタッチし、「自分が外れるからキャスティングも一新して構わない」と佐藤へ告げていた[9]。降板した深作は「(ロケハン以外にも鎧の手配など)予算を使いすぎて大映へ非常に迷惑を掛けた」と述べている[9]。
「1982年夏、全国東宝系170館で公開する」と松岡功は公言していた[8]。同年に日本で公開された映画『未完の対局』は中国側が徳間康快に「一緒にやらないか」と脚本を示してきたもので、「娯楽性を考えると、これは映画になりにくい」と徳間康快は判断したが、「これをやらなくては『敦煌』への道は開かれない」と意を決し、初の日中合作を実現させた[6]。この成功により[6][7]、中国側も『敦煌』に対して理解をし始め、実現に向けて大きな可能性が生まれた[6]。企画当初は20億円と見られていた予算は、10年間の時を経て、物価の上昇などで35億円にまでハネ上がっていた[6]。なお中国当局によって、製作費は中間搾取され、撮影機材は日中友好の名の下に、全て接収されたという[10]。 関連企業・団体に618万枚の前売り券が配布され[11]、そのうち売上は450万枚に達した[12]。 映画PR時のイメージソングとして、ケヴィン・コスナー率いるバンド「ROVING BOY」(ロヴィン・ボーイ)による楽曲『THE SIMPLE TRUTH』[13]が使用された。 ツルピアを演じた中川安奈の歌うイメージソング『砂漠の海へ』がシングルで発売された[14]。
プロモーション
受賞
第12回日本アカデミー賞(1989年)
最優秀作品賞
最優秀監督賞 - 佐藤純彌
最優秀主演男優賞 - 西田敏行
最優秀撮影賞 - 椎塚彰
最優秀照明賞 - 梅谷茂