散弾銃
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1904年ジョン・ブローニングが世界初の反動利用式セミオート散弾銃であるブローニング・オート5を発表。1963年にガス圧利用式のレミントンM1100が登場するまで、セミオート散弾銃の代名詞として世界的なヒット商品となった。

1931年ジョン・ブローニングの遺作となる世界初の上下二連式散弾銃ブローニング・スーパーポーズドが発売された以降、上下二連式が従来の水平二連式を取って代わり、狩猟用とクレー射撃用二連式散弾銃の主流となっている。
戦場詳細は「戦闘用散弾銃(英語版)」、「戦闘用散弾銃の一覧(英語版)」、および「軍用12番実包(英語版)」を参照ショットガンを装備した第二次大戦時のアメリカ海兵隊

アメリカ独立戦争では、ジョージ・ワシントンのアイデアで、ブラウン・ベスマスケット銃に通常の単体弾と散弾を同時に詰めて使用した(バック・アンド・ボール弾(英語版))。

アメリカ南北戦争では、将兵の私物のショットガンが広く使用された。特に南軍騎兵隊がショットガンを愛用した。その後の西部開拓時代にはコーチガン(英語版)と呼ばれる銃身が短い二連散弾銃(英語版)が、元軍人であることが多かった開拓者たちに愛用された。同時期、インドやパキスタンなど英国植民地領では、駐屯地への侵入者(多くは困窮した現地人であった)を射撃する目的で、制式装備のリー・エンフィールドとは別に、旧式化したスナイダー・エンフィールドをバックショット実包と共に配備していた。

第一次世界大戦塹壕戦となり、塹壕内での近接戦闘が発生した。その中で切り詰めた散弾銃を米軍が多用したことで知られる。一例としては、ウィンチェスターM1897散弾銃が既に開戦前から制式採用となっていたが、銃剣ラグと銃身カバーとを加える改造を受けて、塹壕戦向けに配備された。同銃は構造上、引き金を引いたままポンプ操作を行うと連射(スラムファイア(英語版))ができたため、自動銃並みの速射が可能であった。こうした散弾銃の使用に対してドイツ側は、人道上の理由や鉛弾の使用について、外交ルートを通じて正式に抗議している。この抗議は最終的には却下された。

第二次世界大戦においては塹壕内が主戦場ではなくなったこともあり、ヨーロッパで使用されることは少なくなったが、太平洋戦線では多数が使用され、ジャングル戦で威力を発揮した。戦争末期のドイツ軍日本軍では部隊を編成するための小銃が不足し、一部で徴用した狩猟用散弾銃で代用していた。

第二次世界大戦後もジャングル戦となったベトナム戦争などでも使用されたが、散弾銃は兵士の私物であることがほとんどであった。兵士にとって狩猟などで使い慣れ、構造の信頼性がある散弾銃を戦闘に使用するという発想は自然なものであった。
日本における散弾銃の歴史詳細は「日本の銃器(英語版)」および「日本の火砲(英語版)」を参照日本国産初のガス圧自動式散弾銃であるフジ・スーパーオート・モデル2000

戦国時代天文12年(1543年)の種子島への鉄砲伝来以降、明治維新に至るまで、日本の狩猟は主に弓矢や火縄銃が用いられており、散弾はほとんど使用されなかった[1]

明治時代に入り、外国から元込式ライフル銃や元折水平二連銃が輸入されるようになる中、明治13年(1880年)に村田経芳の手により、日本初の元込式ライフル銃である村田銃が発明される。

この村田銃を猟銃に転用すべく、松屋兼次郎が村田経芳の指導の元、明治14年(1881年)に火縄銃の銃身を流用して開発し村田式散弾銃が日本初の元込式散弾銃となった。後に村田経芳が民間に広く村田銃のパテントを販売したことが契機となり、刀鍛冶や鉄砲鍛冶が村田式散弾銃の銃身や機関部を作り、指物師が銃台を作る状況が生まれ、日本の散弾銃産業の端緒となっていった。

有坂成章の手により明治30年(1897年)に三十年式歩兵銃、次いで明治38年(1905年)に三八式歩兵銃が開発されると、それまで制式であった軍用村田銃や洋式ライフル銃はライフリングを削り取られ、散弾銃として民間に払い下げられるようになった。

明治・大正期には英国製水平二連銃やブローニング・オート5などが輸入されていたが、この頃、原蔦三郎の手により明治32年(1899年)に日本初の水平二連銃が製造され、次いで大正3年(1914年)には岡本銃砲店の太田政弘によって日本初の上下二連銃が製造された。この時代に川口屋林銃砲店の石川幸次郎、岡本銃砲店の名和仁三郎、浜田銃砲店の浜田文次らが各種二連銃の名工として名を馳せた。

しかしこれらの輸入銃・国産ハンドメイド二連銃は専ら上流階級のハンター達が購入するに留まり、庶民の猟銃の主流は昭和20年(1945年)の敗戦まではほとんどが軍用銃の改造品、若しくは民間銃器メーカーにてライセンス製造された村田式散弾銃であった。昭和12年(1937年)に日中戦争が勃発し、日本国内が戦時体制に移行。翌昭和13年(1938年)には散弾銃をはじめとする狩猟銃は「不要不急の贅沢品」として輸入及び製造の一切が禁止される。この日本政府による禁止令は、第二次世界大戦敗戦後の昭和25年(1950年)まで継続されたが、約13年に渡り市井に新銃が全く供給されなかったことにより、戦後の狩猟銃生産解禁時に市場が一気に活性化する一因ともなった[2]。なお、第二次世界大戦末期には、連合艦隊の壊滅で組織的な海上行動がほぼ不可能となった大日本帝國海軍によって、市井に残る散弾銃5万挺余りが供出させられ、サイパンの戦いなどで海軍陸戦隊守備兵に供出された散弾銃が配備されたという[2]ミロクM3700上下二連銃

敗戦後の昭和28年(1953年)、GHQにより狩猟銃の生産が解禁されると、それまでの銃砲店に所属する銃職人によるハンドメイド体制に代わり、軍用銃・機関銃・村田式散弾銃などの製造に携わっていたミロク製作所SKB工業[注釈 1]晃電社[注釈 2]などが元折単身銃、上下二連銃、水平二連銃の本格的な量産に乗り出し始めた。

昭和38年(1963年)に日本猟銃精機(後のフジ精機[注釈 3])にて国産初の反動利用式セミオートのフジ・ダイナミックオートが開発される。昭和40年(1965年)にはSKBや川口屋林銃砲店(KFCブランド。製造はシンガー日鋼)も反動利用式オートに参入、村田式散弾銃が主流であった日本の狩猟界に大きな反響を巻き起こすが、1963年に米国レミントン社からガスオートのレミントンM1100が発売されると、セミオートの主流は反動利用式からガスオートに移り変わっていき、昭和40年代中期にはフジ精機、SKB、KFCの3社ともガスオートに生産の主力を移していく。

1960年代末ごろより欧米圏、とりわけ北米市場への輸出の道が開かれたことも日本の散弾銃メーカーにとって成長の追い風となった。1960年代まで米国の銃器メーカーはOEM供給元として主に欧州の銃器メーカーを選定していたが、1970年代に入り欧州各国でインフレーションが進行したことにより収益を出すことが難しくなり、より為替差損が少なく丁寧な工作精度を持つことで知られていた日本の銃器メーカーがこの頃より欧米メーカーのOEM供給元として採用される事例が増加した。日本メーカーによるOEM供給体制はトルコなど新興国の銃器メーカーが台頭する2000年代中盤ごろまで盛んに行われていたが、欧米の銃器業界関係者からの評価も非常に高く、全米ライフル協会のライターであるフィル・バージャイリーは、1984年から2004年に掛けてウェザビー(英語版)のOEMを担当した新SKB工業を評して「信頼性が高く、本当に素晴らしい完成度であった」と記していた[3]

一方、国内では1970年前後に猟銃の暴発、誤射による事故が相次いだ。宮澤喜一通商産業相は「国内の銃砲刀剣類の売り上げが年間50億円に達している。狭い国土でハンターの撃つに任せて良いのだろうか」「通商産業省としては散弾銃の製造を禁止しても良いと思っている」といった批判の声を挙げ、猟銃所持の許可や猟場、ハンターの資格など狩猟全体のあり方が厳格化される契機となった[4]

さらにその後、1970年代後半から80年代後期に入ると日本の狩猟界全体が高齢化と新規参入者不足で内需が減少する構造不況に陥っていき、各メーカーとも生産した銃の大半を為替相場の変動で収益が安定しにくい輸出に回さざるを得ない状況となり、安定したOEM供給先が確保できなかった国内メーカーの多くが倒産・撤退していった。2000年代以降イタリアスペイン、トルコなどの新興国の銃器メーカーが日系メーカーの価格競争力を上回る実力を付けていき、日系メーカーのOEM供給先を徐々に侵食していったことも逆風となった。

2000年代まで日本の散弾銃量産メーカーはミロク製作所と新SKB工業の二社体制となっていたが、2009年9月11日に新SKB工業が世界金融危機及び円高の影響を受けて輸出が伸び悩んだ結果、資金繰りに行き詰まり廃業に至ったこと[注釈 4][5]で、国産散弾銃メーカーは事実上ミロク製作所のみとなった。


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