教養
[Wikipedia|▼Menu]
近代以降は出版技術の発達に始まり、大衆の地位・経済力向上などによる普通教育制度の確立、マスメディアなどの普及により大衆が教養を身につける機会は増加していった。
日本近代の「教養」

明治初期に学制が定められ近代的な教育体系が創出されていったが、そこでは欧米の文物(特に科学技術など)を学ぶことが最優先とされた。日本の伝統的な教養の中心であった漢学は軽視され、欧米の教養であるギリシャ・ローマの古典に対してもそれほど関心は寄せられなかった。

日本で題名に「教養」と冠した書籍を探してみると、『国民の教養』(加藤咄堂1901年)が古い例で『女子教育家庭教養法』(秋山七朗ほか、1902年)、『嬰児教養』(子女教養全書、下田歌子、1902年)、『人格と教養』(青年修養叢書、大原里靖、1907年)などの例がある。20世紀始めころに、子供を教え養う教育法という意味と、人格に結び付いた教養という意味と、両者の用法で使われていたことがうかがわれる。

明治末から昭和戦前期の旧制高校では読書による人格形成を目標とする教養主義の傾向がみられた。西洋哲学が流行し、カントの『純粋理性批判』や西田幾多郎の『善の研究』などの哲学書、文芸書は当時の必読書であった。また、教養主義という学生文化の牽引には、総合雑誌が大きな役割を果たした。『中央公論』『改造』『経済往来(日本評論)』等の雑誌に載る論文が読まれた[2]。こうした総合雑誌や難解な哲学書をときには原書で読み、学生同士で夜を徹して議論をすることもあった。全国から学生が集まり、寮で共同生活を送る旧制高校においてお互いに見栄を張る要素もあったが、共通の会話を成立させ、互いの向上を図るものでもあった。

夏目漱石は日本・中国・イギリスの古典、文芸に通じ、俳句や漢詩、書画もたしなむ教養人であった。漱石の周囲で育った阿部次郎寺田寅彦らは個人の人格を重んじる立場で大正教養主義と呼ばれた。1938年、「現代人の現代的教養」を目的とした岩波新書が刊行されたが、岩波書店創業者の岩波茂雄も漱石門下であった。

河合栄治郎は軍部が台頭する暗い世相の中で、学生を教養主義に生きるべく、『学生に与う』『学生叢書』を刊行した。『学生叢書』は昭和戦前期の教養主義のマニュアル本とされた[3]

第二次世界大戦後、旧制高校が廃止され、かわりに大学教養課程(教養部)ができたが、一種の人格の修練場であったかつての旧制高校の雰囲気・傾向は1970年代ごろまで続いた[4]。『世界』『中央公論』『展望』『思想の科学』『朝日ジャーナル』『』などの総合雑誌を読むことが、学生の半数を超えるわけではないが(3割程度という)、規範文化という位置を持っていた[5][注釈 1]。やがて大学の教養課程の科目は、一般教育科目を中心に、俗にパンキョウと呼ばれ、専門課程を迎える前に消極的に履修する必修科目群という扱いを受けることが多くなった。

1958-1960年に刊行された叢書『現代教養全集』(筑摩書房)から当時の教養観がうかがえる。全集の内容は、戦後の社会、戦争の記録、マスコミ、日本人論、友情・恋愛・結婚、文学、日本の近代、日本の文化、経済、教育、宇宙時代など諸般の事物におよぶ[注釈 2]。ここでは、日本・欧米の古典に通じるとともに、現代の政治・経済・社会に及ぶ諸問題に一家言を持つような人(丸山真男林達夫桑原武夫など)が「教養人」と考えられていたようである。

1960年代ごろまで大学でみられたこうした教養主義は[7]、高等教育がマス段階になり大学が大衆化していった変化[注釈 3]、ビジネス技術学などが導入され始めた変化[9]、ホワイトカラー人口と農漁村人口が逆転した変化[注釈 4][注釈 5][注釈 6]とともに廃れていった。それにともなって、文化が持つ3つの作用「適応」(適合や実用性)、「超越」(理想主義)、「自省」(自身の妥当性・正当性・正統性を自問すること)のうち、適応が肥大化し、超越・自省が衰退していったという[13]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:29 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef