5世紀前半には教皇の権威はイタリア・ガリア・ヒスパニア・アフリカ・イリュリクムに及んだ[2]。ところが東ローマ帝国に結びついたことで、東方の神学論争が西方に持ち込まれ、神学論争に介入する皇帝の姿勢は不満の種となり、北イタリアの大主教が教皇の影響から離脱する動きを示し、ガリアとイベリア半島でも分離傾向が見られた。イタリア半島にランゴバルド族が侵入すると、グレゴリウス1世はフランク王国と友好的な関係を結んだ。分離傾向を示す西方諸地域の司教たちに対して、グレゴリウス1世は教皇がそれらの上位にあることを繰り返し強調した。司教は当時すでに有力な世俗領主となりつつあり上層階級には司教座を熱望する動きがあった[3][4]。その結果、明らかにふさわしくない候補者や若すぎる候補者が司教選挙に立つようになった[3]。
グレゴリウス1世は、ナポリ司教を解任し、メリタ司教を降格し、タレントゥム・カリャリ・サロナの高位聖職者を批判し、司教座に対する支配を徹底した[5]。ブルンヒルドによるテウデリク2世
・テウデベルト2世の摂政期に起こった数々のガリア教会の醜聞に、グレゴリウスは諫言を書き送ったが、実を結ぶことはなかった[6]。グレゴリウス1世はビザンツ皇帝であるマウリキウス帝やフォカス帝に宛てた書簡では、自らへりくだって敬意を表しているが、メロヴィング朝の君主へ宛てた手紙では、彼らを厳しく叱責し高圧的な態度を取っている[7]。この当時のガリア教会は完全にメロヴィング朝の「領邦教会」と化していたからである[8]。ビザンツ帝国に対しては一定程度の影響力を行使したが、従来教皇の指導権が及んでいたイリュリクムでは教義に関しても無力であった[6]。ローマ教皇のイリュリクムに対する管轄権は最終的にグレゴリウス3世時代の732年、ビザンツ皇帝レオーン3世によってコンスタンティノープル総主教の手に移された[9]。
グレゴリウス1世は正統信仰の拡大に熱心で、ブリテン島への伝道を組織し、このアングロ・サクソン人への布教は順調な成果を上げ、カンタベリー大司教区が設けられ布教の拠点となった。ブリテン島はこののち北ヨーロッパにおける有力な布教拠点となり、たとえばカール大帝の時代にはアングロ・サクソン人の伝道者たちが、大帝のガリアの宮廷で、キリスト教文化の興隆に多大な貢献をするまでになっていた。またアリウス派の牙城であった西ゴート王国のカトリックへの改宗に成功した。
成立天国への鍵を授けられるペテロ。
イエスはペテロに天国の鍵を預けたとされ、彼が最初のローマ司教となったことで、彼の後継者であるローマ司教にその権威が受け継がれているという観念が広まった。ローマ教皇はこの鍵を自身のシンボルとして用いている。
476年(480年)に西ローマ帝国が滅亡した後、都市やその領土等のローマ教皇への寄進によって教皇のものとなっていた領地というものは存在したが、後に教皇領となった地域は古代末期から中世初期には東ゴート王国、それを滅ぼした東ローマ帝国のラヴェンナ総督府、ついで6世紀にイタリアに侵入して東ローマ領を侵食したランゴバルド人のランゴバルド王国などが支配していた。こうした中、732年にカロリング家のカール・マルテルが、ランゴバルド王国と同盟して、トゥール・ポワティエ間の戦いでウマイヤ朝の侵入を食い止めた。さらに、その後、カール・マルテルは土地を貸与する封建制で騎兵隊を創設した。 フランク王国でメロヴィング朝の君主に替わってカロリング家が実権を握るようになると、教皇とカロリング家は接近し非常に親密な関係を結ぶようになった。 ランゴバルド王国を牽制したかった教皇ザカリアスは、751年に名目だけの王と成り下がっていたフランク王国(メロヴィング朝)のキルデリク3世を廃し、カロリング家のピピン3世の王位簒奪を支持してカロリング朝が創設された。本格的に教皇領が世俗の国家のように成立するのは、翌752年にこの国王ピピン3世(小ピピン)がランゴバルド王国から奪ったイタリアの領土を寄進してからである。この時期ラヴェンナ大司教は東ローマ皇帝の利益を代弁し、ローマ教皇と北イタリアの教会の管轄権を争っていた。ピピン3世はランゴバルド族を討伐すると、ラヴェンナを征服し、ローマ教皇に献じ(ピピンの寄進)、教皇の世俗的領土として教皇領が形成された。カトリック教会の中心であるローマ教皇庁が領土をもったことは、精神的な存在であるはずの教会の世俗化につながった。 つづく教皇ステファヌス2世はガリアのピピン3世の宮廷に自ら赴き、フランク王国がイタリアの政治状況へ介入するという約束と引き替えに、ピピン3世の息子カールとカールマンに塗油の秘蹟を施した。 773年に教皇ハドリアヌス1世は、ランゴバルド王国によってローマを脅かされていたが、ピピン3世の跡を継いだカール1世(カール大帝)に援軍を要請し、774年にランゴバルド王国は滅亡した(Langobardenfeldzug 教皇レオ3世は800年、カール1世をローマに招いて、ローマ皇帝の冠をカールに授け、彼に「西ローマ皇帝」の地位を与えた。この場合の「西ローマ」はイタリア半島と西ヨーロッパ内陸部、ガリアとゲルマニア(理念上はヒスパニアとブリタニアも含む)を指す領域的な用語で、かつての東西分裂時代の西ローマ帝国とは基本的に異なり、その支配者に注目すれば「カロリング帝国」もしくは「フランク帝国」となる。かくして西ローマ帝国が事実上復活し、フランク国王である西ローマ皇帝は西地中海においてキリスト教世俗国家を代表することとなった。欧州の大実力者フランク王国とローマ教皇が提携することによって、東方教会と東ローマ帝国やイスラム帝国に対抗できる体制が整った。 教皇は教皇国家といえるような世俗的な領土を持っていたとはいえ、基本的には教皇領も帝国の一部で皇帝から独立していたわけではない。しかし、教皇は東ローマ帝国のコンスタンティノープル総主教とは異なり、皇帝の官僚であることはなく、教皇選挙によって皇帝の承認を必要とせずに選ばれたのであって、教皇選任に対する皇帝の統制は制度としては介在することはなかった。またカール大帝が帝冠を教皇から与えられたことは、のちに世俗君主が皇帝を名乗るのに教皇の承認を必要とするという観念につながり、教皇に優位性を与える根拠となった。
ピピンの寄進
カール大帝の寄進とフランク・ローマ皇帝