教如
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^ 法主を務めた寺号「本願寺」に諱を付して本願寺光寿(ほんがんじ こうじゅ、ほんがんじ みつとし)とも称される。この「本願寺」は便宜的に付されたものであって、氏や姓ではない。
^ 正式には「本願寺」。一般には通称である「東本願寺」と呼称するので、「東本願寺第十二代門主」と表記した。
^ 父子密計説は大坂拘様が顕如・教如父子が密約で示し合わせたこととする説で、辻善之助が提唱していたが、大桑斉神田千里は大坂拘様で顕如が教如を義絶して父子の対立が深刻化、教団の分裂や家臣間の対立も根深くなった点を挙げて否定している[9][10]。武力行使による訴訟説は、教如が顕如へ伝えた大坂拘様の理由を取り上げ、大坂拘様(抗戦続行)が信長や朝廷へ本願寺存続の約束を取り付けることを訴えるための行動としている[11]。下間仲孝謀略説は、講和反対派の教如と相容れなかった講和賛成派の仲孝が、顕如と教如の意思疎通を妨害して教如を籠城へと駆り立て、顕如の本願寺退去の殿として教如の籠城を仕向けたとする[12][13]。雑賀衆協力説は、石山合戦中に支給された兵糧で生活していた雑賀衆が、講和で兵糧支給が無くなることを恐れ教如に抗戦を働きかけたとしている(本願寺同盟相手の毛利輝元の許にいた足利義昭も輝元へ教如の援助を命じている)[14]
^ 側室である教寿院如祐(新川氏・おふく)が教如の寵愛を受け、2男7女を産んだ件が問題視されている。教如は2人目の妻東之督を差し置いておふくを寵愛したことが周囲の人々から反感を買い、頼龍・慈敬寺・教行寺が連判で諫言したり、如春尼がおふくを敵視するなどおふくの立場は悪化、教如退隠で別れさせられたが、後に教如の元へ戻った。教如の死後おふくは後継者問題に介入、教如と自分の外孫公海を擁立したが頓挫、元和2年(1616年)に隠居して寛永10年(1633年)に没した[48][49]
^ 秀吉が本願寺の後継者問題に介入した理由は、本願寺が門跡として天皇の権威に内包されたことが挙げられ、本願寺の後継者問題に天皇やそれに準ずる権力(関白・太閤)が介入する余地が出来上がっていた。なお、10月13日に秀次が下した准如の継承を承認した朱印状と、16日の秀吉の朱印状では後陽成天皇の意向を受けて決定・追認したという形式を取り、天皇を補佐・代行する関白の秀次が天皇の意向を受けて決定、太閤秀吉が保障するという形式を取っている[50]
^ 教如は天正8年から2年間中部地方を流浪していた時期から金森長近と関わりがあったとされ、長近と姻戚関係があり、教如が利用した安養寺とも深い繋がりを持つ遠藤慶隆の助けもあったという。慶隆は教如を菩提寺の乗性寺に匿い、天正9年に教如が長近の大野城に近い南専寺に滞在出来たのは、慶隆に説得された長近の黙認があったとされる[67]。長近と教如は秀吉のお膝元で利休の茶会などで親しくなり、教如に招待された長近と有楽が茶会で話し合ったことが教如の長近宛書状で記されており、慶長5年の大津城での家康対面のことを長近に書き送った書状も残されている[68][69]
^ 正信が挙げた理由は教如の家臣宇野新蔵の日記『宇野新蔵覚書』に記されているが、『集古雑編』という史料でも正信のほぼ同じ発言が載せられている(教如引退は秀吉の仕置きということもあり法主復帰は好ましくないこと、とはいえ教如は嫡流で慕う門下も未だに多いこと、三河一向一揆にも触れている)。この2つの史料から浮かび上げる点は、家康と正信が教如の退隠当初から彼の下に結集している支持者たち(教如教団)の存在を事実として捉え、既に本願寺は2本に分裂しているという認識で話し合っていることであり、教如の法主復帰だと継承時に起こった派閥抗争が再燃する恐れがあったため、未然に防ぐ意図があったと思われる[76][77]

出典^ a b c d 『教如』 - コトバンク
^ 大桑斉 2013, p. 24-28.
^ 同朋大学仏教文化研究所 2013, p. 8-9.
^ 神田千里 2020, p. 48,94.

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