教化団体
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また、花田仲之助の報徳会によると、1923年、花田は全国の教化団体が連合する必要を痛感し、同志の一徳会とともに、東京の主要な教化団体と何度も交渉したが、どうしても協議が進まず、そのうちに関東大震災が突発し、困難に陥ったという[16]

内務省の肝いりで教化団体の組織化が始まるのは、関東大震災の後の混乱を経て、その年の11月10日に国民精神作興に関する詔書が発せられてからである[17]。この詔書は内務省系の国府犀東が中心になって起草したものであるが[18]、これに対しては文部省が先に反応する。文部省はまず同月17日に詔書に関する訓令を発し、21日に詔書に関して地方の社会教育主事を招集して会議を開き、その答申で「各種社会教化団体に対し統制ある訓練を施す」との提案をうける。一方、内務省では、詔書の趣旨を普及徹底するため、大臣その他の内務省幹部が各地に出向いて協議会や講演会を開く予定であったが、震災後の国務繁忙を理由に予定を中止する。その代わりに教化団体を動員するという案が浮上する。東京の教化団体関係者は震災で焼き出されて四方に避難し、所在不明になっているものが多いので、内務省は手を尽して探し、36の教化団体の所在を突きとめる。

そして年の暮れの12月26日、36の団体を内務省社会局の会議室に招集する。団体を選別する余裕がなかったため、招集に漏れた有力団体もあり、逆に零細団体なのに堂々と参加した団体もあったという[17]。有名な団体としては、中央報徳会(代表一木喜徳郎)、日本青年館後藤文夫)、修養団蓮沼門三)、日本弘道会(徳川達孝)、処女会中央部(山脇房子)などが招集され、このほか明治余光会、大日本努力会、斯道会、国風会、奉公会、天業民報社というような団体も参加した[19]。協議会の席上、官金の助成を求めた団体もあれば、自己宣伝を続けた迷惑な団体もあったという。さまざまな議論が出るが、詔書の趣旨の普及徹底を図るという点では一致する[17]。そして、教化団体連合会を結成するいう案が出される。それは、教化団体連合会から政府に要求や建議を行って国民の奮起を促すという提案であった。参加者の多数はこれに賛成する。一木喜徳郎も賛成するが、その際に留保条件として「歴史を異にし、特色を有する各団体の自由を束縛するががごときのないように」という注文をつける。中には、かつて文部省主導で教化団体の連合を試みて失敗した例を鑑みて、消極意見も若干あったが、内務大臣ら内務省側が熱心に説いて、どうにか結成の方向でまとめる[19]

内務省社会局での協議の翌日、摂政皇太子が狙撃される。この虎ノ門事件は教化の重大性を痛感させるものとして捉えられ、教化団体の連合に拍車をかけることになる。この事件によって山本内閣が倒れ、年明け正月元旦に清浦内閣が成立する。後藤に代わって内務大臣に就任した水野錬太郎は訓示で「政府は各種教化団体・教育家・宗教家と協力して、ますます国民精神の涵養と民風の作興とに勉むる」と述べ、従来の路線を継承することを明らかにする[19]
教化団体連合会の結成

1924年1月15日、教化団体連合会が結成される。当日午後1時から教化団体代表者が協議会を開く。前月26日と同じように様々な議論がでて協議会は夜まで続く。議論の末にやっと規約を議定し、あらかじめ加藤咄堂が起草しておいた宣言書を後藤武夫が読み上げる[19]。この宣言書は連合会の結成経緯とその課題を述べるものである[20]。その趣旨は、国家興隆の本は国民精神の剛健にあるが、最近は浮華放縦の風潮が民心を侵しているので、国民教化にあたる者は自らの責任を重大と思い、ここに同志の各団体が連合して一斉に立ち上がり、聖旨の普及徹底に努めてこれを広く全国民に及ぼさなくてはならない、というものである[19]。役員については、会長に一木喜徳郎(中央報徳会)、常務理事に三矢宮松(内務省)、そのほか理事に本多日生(自慶会)、留岡幸助(人道社)、今泉定助(神宮奉斎会)、後藤武夫(日本魂社)、加藤咄堂(上宮教会)が就く[20]

教化団体連合会結成の翌月、清浦内閣は宗教家や各種教化団体の意見を徴するため、その代表者たちを首相官邸に招く。内閣からは清浦首相、水野内相、江木文相が出席する。清浦首相は教化団体に対する挨拶で、教化団体が社会教化事業を担って国民の思想善導・道徳向上に直接尽していることに感謝し、その助力を得ることを最も切望していると述べる[21]。宗教家や各種教化団体関係者は、思想善導・国民精神作興に取り組むにあたって、単に政府の力だけでなく、自分たちが民間から努力する必要があるという認識で一致する。この会合には、教化団体連合会から会長の一木喜徳郎、理事の今泉定介、留岡幸助、後藤武夫が出席したのをはじめとして、大木遠吉帝国公道会)、水町袈裟六(中央報徳会)、山脇房子(処女会中央部)ら連合会を結成した人々も出席した。このほか、鵜沢聡明大東文化協会)、山岡萬之助東洋文化学会)、嘉納治五郎講道館文化会)、長尾半平(国民禁酒同盟)、戸板関子(婦人復興会)、阪谷芳郎斯文会)、野口援太郎(帝国教育会)、小崎千代日本基督教婦人矯風会)らの名が見える[22]

同年9月末までに、教化団体連合会の加盟団体の数は64に増える。新たに加盟した団体の中には、かつて全国道徳団体連合大会を主唱した花田仲之助の報徳会も含まれる。このほか仏教系の中央仏教会、仏教青年伝導会、東京仏教護国団、日本宗教会館社会事業部も参加している[22]

1924年、大日本報徳会が定款を改正し、全国各地の報徳社を大合同し、その指揮監督をも行うことになる[23]
教化団体の文部省への移管

1925年5月、内閣に行政調査会が設置され、その後およそ2年間、省庁間の所管について調整を行う。その中で、教化団体の所管についても調整が行なわれ、最終的に教化団体を文部省の所管に移すことに決まる[24]

はじめ文部省は教化事業に関する事項について「内務省所管より文部省所管へ移すを適当と認む」と主張し、その理由として次のことを挙げていた[25]

教化運動は倫理運動であって教育や宗教と密接な関係を必要とし、また学術等とも離れられない関係を有すること

教化運動を担当する者の多くは教育家・宗教家・その他倫理運動関係者であること

法人組織の教化団体は文部省において認可したものが多いこと

行政調査会では当初、教化団体を内務省所管に留める案が優勢であったが、文部省は執拗に移管を要求する。1926年9月13日の行政調査会幹事会は教化団体を文部省に移管することを可決する。これを具体化した23日の「各庁事務系統整理案」は次のように整理する[26]

教化団体・青年団・処女会に関する事務は文部省の所管とし、その内務省の事務に関係ある重要事項は文部省より内務省に合議を為すべきものとし、合議事項の範囲はあらかじめ両省の協定に依る。

(説明)教化団体・青年団および処女会は現在、内務・文部両省の共管に属するも、同一団体を二省の共管に属せしむることは行政の敏活簡明を期する所以にあらざるをもって、比較的関係深き一省に属せしむるを相当とす。しかして教化事業は倫理運動にして教育および宗教と関係密接なるを要するに依り、青年団・処女団はその修養団体たるの実を挙げんが為には学校教育と密接なる関係を有するに依り、これを文部省の所管とするを相当とす。ただしその内務省の事務と密接の関係ある重要事項については同省に合議を為すべきものとす。しかして感化院・勤倹・貯蓄・地方改良のごとき事務は依然内務省の所管とす。

教化団体に関する内務省の事務は1928年10月に文部省に移管される[27]。この間、教化団体連合会は、同1928年4月1日付けで従来の規程を廃し、新たに会則を定める。この新会則の定めにより、名称を教化団体連合会から中央教化団体連合会に改めるとともに、組織を根本的に変更する。すなわち、従来加盟していた個々の教化団体は一旦脱退して、各団体所在地の府県連合会に加盟することとし、府県連合会が中央教化団体連合会に加盟する形式に改める。さらに中央教化団体連合会は文部省に財団法人設立を出願し、同年12月24日に認可される[28]。翌1929年の7月、文部省に社会教育局が置かれ、教化団体に関する事務は総て同局が所管することになる[29]
教化総動員運動

1929年9月から12月にかけて教化総動員運動が全国で実施される。これは浜口民政党内閣の成立を機に民政党の党略として急遽計画された運動である。浜口内閣は7月に「十大政綱」を発表し、その第2項に「民心の作興」を掲げ、国体観念の涵養に留意して国民精神の作興に努めることを宣言する。これを受けて、小橋文部大臣は8月5日、中央教化団体連合会長の山川健次郎や、東京府下の各教化団体幹部を招待して協力を求め、その後、急ピッチで準備を進める。この運動は各地の教化団体・青年団体・宗教団体・婦人団体などを担い手として、一般国民を巻き込むことを意図していた。しかし、運動を推進していた小橋文相が途中で鉄道疑獄事件により辞任したこともあって、教化総運動は尻すぼみに終わる。もっとも、各地の教化団体などが自発的に運動に参加したことは、一般国民の間に思想国難の意識を深め、共産主義への恐怖を煽り、異端排斥のムードを広める結果になる[30]

教化総動員運動が終息した翌1930年1月、文部省は省議で思想善導案を決定し、その中で「社会教化団体の活動を促す事」、「中央教化団体、府県連合教化団体の活動を促し、全国市町村に亘って社会教化網を張る事」、「中央教化団体主催の下に全国一斉に教化運動を行う事」を掲げる[31]
国民更生運動

1932年9月1日、中央教化団体連合会会長でもある斎藤実首相が、首相官邸からラジオを通じて全国に向けて「関東大震災記念日にあたり国民更生運動の本旨を闡明す」という題で講演をする[32]。その4日後には内務大臣の山本達雄がラジオ放送で国民更生運動を宣明する。国民更生運動とは、経済的国難ともいうべき不況を打開するために、政府が土木事業などの経済対策を実施するにあたり、国民においてもひとりひとりが自力救済に努めるように促す運動であるという。


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