それから、かわいがっていた息子がその白馬から落ちて、片足を挫いてしまった。周りはまた同じように慰めの言葉を掛けたが、翁はまた同様に「いいことの前兆かも知れない」と告げる。それからしばらくして、隣国との戦争が勃発した。若い男は皆、戦争に駆り出されて戦死した。しかし息子は怪我していたため、徴兵されず命拾いした。そして、戦争も終わり、翁は息子たちと一緒に末永く幸せに暮らしたという[12]。
このことから、人間、良いこともあれば悪いこともあるというたとえとなり、だから、あまり不幸にくよくよするな、とか幸せに浮かれるなという教訓として生かされる言葉になり、人間万事塞翁が馬などと使われる。
宰相殿の空弁当詳細は「宰相殿の空弁当」を参照
先んずれば将ち人を制す「wikt:先んずれば人を制す」も参照
秦朝末期、各地で起きた反乱は鎮圧されるどころか増大していた。ここで会稽の県令殷通は「先んずれば将ち人を制す(他の人より先に事を始めれば、その主導権を握れるだろう)」と、反乱軍が押し寄せる前に事を起こす決意をしたことに因む。ちなみにこの後殷通は、一緒に反乱を起こそうと誘った会稽の実力者項梁に殺害された。[13]
三顧の礼詳細は「三顧の礼」を参照
死屍に鞭打つ詳細は「伍子胥#死屍に鞭打つ」を参照
四面楚歌詳細は「垓下の戦い#四面楚歌」を参照
守株「待ちぼうけ#守株待兔」も参照
ある男が農作業に勤しんでいると、目の前を跳ねていた兎が切り株に当たってそのまま死んだ。彼は喜んで、思わぬ獲物を家族に見せると、家族は「高く売れる」と皆声を揃えて喜んだ。すると、男は明日からは木を伐ってこつこつと稼ぐのはやめにして、兎を待って一攫千金を稼ぐことを策略する。そして、ありとあらゆる木を切り倒して、来る日も来る日も兎が死ぬのを待ちわびた。ところが、そんな偶然など滅多に起こるはずもなく、いつしか男は周りの笑いものにされ、そして自分が耕していた田畑は荒れに荒れてしまい、以前にも増して貧乏になってしまったという[14]。
このことから、物事はいつもうまく行くものではないという教訓からすなわち古いやり方ばかりで、進歩がない、または、偶然を当て込むような愚かなことをする、という意味となった。今日、日本では株を守りて兎を待つということわざになっている。また童謡の『待ちぼうけ』は、この故事を下敷きにしたものである。
酒池肉林詳細は「酒池肉林」を参照
城下の盟「屈瑕#紋に勝利し城下の盟を結ぶ」も参照
『春秋左氏伝』の故事。敵に本拠地近くまで攻め込まれ、その城門の下で屈辱的な降伏条約を結ぶこと[15][16]。 『春秋左氏伝』の故事。 鄭の子公が霊公を訪ねる途中、子公の人差し指が動いたのを同行者が見て「ご馳走にありつける前兆」と言った。「食指」とは人差し指のことである。 このことから、物を欲しがったり興味を持ったりする意味となった。 宋の国の男が、自分で植えた苗の成長が遅いので心配になって、毎日畑へ通い世話を続けたが、一向に成長する気配がない。そこで男は苗の成長を助けてあげようと、一つずつ苗の先を上に引っ張った。疲れて家に帰った男はそのことを家族に話した。それを聞いた息子があわてて家を飛び出し、畑へ向かうと、やはり苗の根が土から浮き、弱って枯れてしまっていた[17]。 このことから助長は、物事の生長を助けようとして、余計に害を与えてしまうこと、という意味に使われるようになったが、今日では単に「第三者が物事を助けること」という意味でも使われる。 前漢の成帝時代は王氏による腐敗政治に染まっていて、治安が乱れていた。中でも自らを学者と騙る張禹という男が政治に介入し、丞相の地位をいいことに日々贅の限りを尽くしていた。そんな状況を見かねた臣下の朱雲はある日、意を決して成帝に「自分が国と帝の将来のため、張禹の首を刎ねる」と発言する。しかし、そのことが帝の逆鱗に触れ、彼は打ち首を命じられた。だが、彼は諫死をも覚悟して檻(欄干)にしがみつき、しがみついた檻が折れてしまうほど必死に進言を続けた。この状況を一部始終見通していた側近の辛慶忌はその朱雲の真意に心打たれ、彼が本当に国のことを思ってこのような無礼を蒙ったのだと、涙ながらに陛下に申し立て、同時に彼の罪を赦すよう歎願した。すると、辛のような大人にまでそのような態度を執られては流石の成帝も改心し、善政を尽くすよう決心した。同時に自らへの戒めとして、折れた欄干をそのままにしておくよう部下に伝えたという[18]。 以上の説話から、この話の元々の意味は目上の人に対して、強く諫めることであり、檻とは欄干、手すりのことである。しかし、後に派生して”厳しく叱る"という意味になり、今日では"体罰を交えて懲らしめること”という意味に捉えられるようになった。 孫楚という男は、ある日友人(王済 そこから、常に意地っ張りなことを漱石枕流、「石に漱ぎ、流れに枕する」というようになった。明治時代の作家、夏目漱石の名前もこの故事に因むといわれている。 「名もない山で拾った粗悪な石でも、自分が所有する玉(宝石)を磨くのには役立つ」ということから、他人のとるに足らない言動でも自身の向上の助けとなる事[20]。
少年老いやすく学なりがたし詳細は「少年老いやすく学なりがたし」を参照
食指が動く
助長「wikt:助長抜苗」も参照
水魚の交わり詳細は「水魚の交わり」を参照
推敲詳細は「推敲」を参照
折檻
糟糠の妻詳細は「宋弘#糟糠の妻」を参照
宋襄の仁詳細は「泓水の戦い#宋襄の仁」を参照
漱石枕流「wikt:漱石枕流」も参照
た行
他山の石詳細は「他山の石」を参照