政治小説
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天香外史『涙の谷』(1888年)は、政治制度の狭間で苦境に陥る人々を描いて、柳田泉は「明治小説史上新旧過渡期の際における最も注目すべき小説の一」[6]と論評し、人情世態小説にして政治小説たる作品[3]とされる。

条約改正が日本の大きな課題となり、朝鮮、中国に進出して西洋に対抗しようという意識に基づく国権小説として、須藤南翠『春暁撹眠痴人之夢』(1887年)、大隈重信を描く春屋主人(坪内逍遥)『外務大臣』(1888年)、塚原渋柿『条約改正』(1889年)、末広鉄腸の政治主張そのままにロシアとの対抗を説く『明治四十年の日本』(1903年)などが現れる。

日清戦争以降には、内田魯庵「政治小説を作るべき動機」[7]などの政治小説論が現れ、巖谷小波『蝸牛』(1895年)、内田『鐡道國有』(1900年)などが生まれ、また社会悪を衝く川上眉山『書記官』(1895年)や、社会の底辺を描く広津柳浪『黒蜥蜴』(1895年)など深刻小説、悲惨小説とも呼ばれる社会小説が書かれた。社会主義運動家でもあった堺利彦訳のエミール・ゾラ『労働問題』(1904年)など翻訳ものの他、木下尚江『火の柱』(1904年)などは社会の非人間性を訴え、大正期以降のプロレタリア文学へと繋がっていく。

また日本の政治小説に学んだ梁啓超は『新中国未来記』(1902年)を執筆し、『経国美談』『佳人之奇遇』の中国語訳も試みた。[8]
政治講談の流れ

自由民権運動の高まりにより1878年頃から政談演説が盛んに行われるようになったが、1880年の集会条令により弾圧が加えられると、演説を禁止された坂崎紫瀾は馬鹿林純翁を名乗って民権講釈なるものを興し、続いて福島の岡野知荘、松本竜野周一郎など各地で民権運動家による政治講談(民権講談 )が、自由党が解散になる1885年頃にかけて行われ、『東洋民権百家伝』『経国美談』なども題材にされた。その後も少なくはあるが伊藤痴遊などが活躍した。これらは明治30年代の岡千代彦、原霞外らの平民講談、大正期の堺利彦、白柳秀湖らによる社会講談への継承される。
評価・研究

日本で政治小説は永く非文壇文学、大衆小説の一系列として軽視されて来た。明治20年代に矢野龍渓と内田魯庵の論争があり、矢野は文学は国民を楽しませる国民文学的なものでなければならないと主張し、これが文壇文学と大衆文学の分化の原型となった。柳田泉『政治小説研究』(1935-39年)以来徐々に評価の対象とされるようになり、柳田は『座談会 明治文学史』(1961年)では、国民が日本の将来に対する夢を託すべき国民文学であるべきだったと述べ、中村光夫も「「新日本」の建設に携わった当時の青年たちの心を後世に比を見ぬほど広く深く捕えた」「ひとつの特異なロマン派文学として再評価すべき」として[9]徳富蘆花「思出の記」の「時代は潮の漲る如く変わって来た。」「僕らは今『西洋血風小嵐』『自由之凱歌』などという小説に余念もなく喰ひ入る時となった。」といった心情を挙げている。

佐藤春夫はこれらの作品について、ジョージ・ゴードン・バイロンの『チャイルド・ハロルド』に見られるバイロニズムの政治的な面の影響を指摘している。[8] 飛鳥井雅道は「近代文学のはじまりを、はっきり自由民権の文学におきたいと思う」とし、文学を遊びや性の限られたジャンルから解放し、政治や民族を含む人間のあらゆる可能性に関与したと評価した。(『日本の近代文学』1961年)
脚注^ 新村出編 『広辞苑 第五版』岩波書店、1998年11月11日、1468頁。
^ 中村忠行「政治小説と清末の文壇」(『明治文學全集 5 明治政治小説集(1)』月報)
^ a b c 『日本近代文学の出発』
^ 『日本現代文学全集3』講談社、1965年「作品解説」
^ 『北村透谷選集』岩波書店 1970年
^ 『政治小説研究』下
^ 『文藝小品』1897年
^ a b 佐藤春夫『改訂近代日本文學の展望』河出書房 1954年(第五章 外國文學の影響)
^ 『日本の近代小説』

参考文献

中村光夫『日本の近代小説』岩波書店 1954年


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