政教分離
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また、信教の自由を成り立たせているものは寛容思想であり、寛容を制度化したものが政教分離であるとされる[17]

このことから、伊藤潔志は「政教分離の本質は, 政教関係の有様ではなく, 信教の自由が保障されていることにあるのである。 したがって, 政教分離は信教の自由を保障している国家における政教関係である」と述べ、さらに、信教の自由や政教分離を認めない国家に対してそれを普遍的な政治原則とみなして認めるよう働きかけていくことは信教の自由に反することにならないかと述べている[17]
軍と宗教空母ハリー・S・トルーマン艦内で、復活大祭聖体礼儀を司式する正教会の従軍司祭と、参祷する乗組員達(2004年4月11日)

キリスト教圏の国では政教分離を国制とした後も、軍隊で従軍聖職者を雇用している。厳格に分離しているアメリカやフランスでも、空母に礼拝所を設置したり宗教行事を執り行うことが容認されている。

自衛隊に宗教活動に従事する職種(兵科)は存在しないが、艦内神社の勧請や駐屯地への神棚設置、装備品のお祓い[26]など、防衛省が主導せず費用を負担しない神事が容認されている。
歴史詳細は「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」および「アメリカ合衆国における政教分離の歴史」を参照

一般的な理解としては政教分離と信教の自由は、西欧においては16世紀の宗教戦争に端を発し、フランス革命で一応形が整う国家の世俗化の産物とされる[27]。中山勉によれば、政教分離は「信教の自由のための制度的保障であり、単に政治と宗教が別次元で活動しているという状況、ないしはその主張を指すものではない」「あらゆる宗教の信教の自由を目的にしているか否かが、政教分離が存在しているかどうかの判断基準」となるとする[28]

962年にオットー1世がローマ教皇ヨハネス12世により「ローマ皇帝」に戴冠され、この神聖ローマ帝国以来ヨーロッパはキリスト教に統一された世界国家となり、最盛期に教会は莫大な土地を領有し、教皇の世俗的権力が強大となった[29]。中世では国家と教会が密接に結合しており、公認の宗教以外は異端とされた[30]

叙任権闘争宗教戦争フランス革命の3つがヨーロッパにおける政教分離の展開における重要な画期となった[31]宗教改革や初期資本主義の進展によって、教会権力と国王権力が対立し、近世に国王権力は絶対君主制を樹立した[29]。しかし、それも18世紀のフランス革命以降崩壊し、宗教的寛容と国家の宗教的中立の制度が広まった[30]

フランスでは1516年の政教条約によって国教制度がとられ、カトリックは特権的地位を与えられた[29][32]ナントの勅令後は 「寛容」が認められプロテスタントにも信仰の自由は認められていたが、1685年に廃止され、1789年まで国教制度が存続した[32]1789年フランス人権宣言は第10条で「何人もその意見について、それがたとえ宗教上のものであっても、その表明が法律の確定した公序を乱すものでないかぎり、これについて不安をもたないようにされなければならない。」とカトリック以外の宗派を含む信教の自由を明記した[29]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}また、1792年9月20日には国民公会が、出生や結婚、死亡などの民事的身分の届け出を教会から自治体に変更し、結婚届けも民事婚にする法案を可決。さらに、西暦の廃止すなわち革命暦の採用、教会資産の国有化、修道会が運営していた寄宿制度(コレージュ)の廃止など革命政府はカトリック教会と対立した[要出典]。しかし、聖職者世俗化法で「至高尊者」などの名の下にカトリックに代わる新たな公的祭祀が行われた[32]ナポレオンと教皇ピウス7世は、コンコルダ(政教条約)を締結し、カトリック中心の公認宗教制となった[32]。このコンコルダ体制では、プロテスタント、ユダヤ教も認可したものの、カトリック国教制であった(1814年憲章、1830年憲章・1848年憲法)[32]。その後、第三共和制のもとでは、修道会が廃止され、公教育機関の非宗教化と、教会と国家との分離がはかられた[32]。フェリー法(1881年)では初等教育の非宗教性が定められ、ゴブレ法(1886年)では聖職者を初等教育から排除され現在のライシテへとつながっていく政策がとられ、1901年の結社法では、修道会設立を政府許可制にした[32]。1904年、フランスとローマ教皇庁は外交断絶となるが、1905年には教会と国家の分離に関する法律 (Loi de separation des Eglises et de l'Etat) が成立し、それまでの政教条約がフランス政府によって一方的に破棄された[32]

イングランドでは1534年ヘンリー8世によってイングランド国教会が成立した。エリザベス女王時代にはピューリタン(カルヴァン派)が国教会からカトリック色を一掃して教会改革を徹底するよう要求を繰り返した。ピューリタン革命前夜、議会派ピューリタンも、長老派(国王との妥協を模索し、国教会のなかで改革をする)と独立派(国教会から分離し、会衆教会を基本単位として教会純化を考える)、平等派(王制を廃止し、人民主権を達成しようとする)などの分離派(国教会からの分離を主張)に分裂した。クロムウェル政権は独立派の会衆派教会を優遇した。同じ分離派でもクエーカー教徒、平等派などは認められず、強く信教の自由を主張した。これらの人々はアメリカ、オランダなどへ亡命してのちに帰国する人も多く、信教の自由、政教分離への主張を強めていった。1660年の王政復古後、イングランド国教会は公定宗教として復活した。議会は1673年審査律を制定し、公職に就くには国教会の信者でなければならないとの規定を行った。そうした中、信教の自由を求める運動は継続され、1689年名誉革命に際して、「プロテスタント非国教徒を現行の諸刑罰から免除する法」(寛容法)が制定され、プロテスタントの非国教徒は信仰を理由に迫害されることはなくなった。しかし、1828年の審査律廃止まで公職に就くことはできなかった。また、カトリックも迫害されたが1801年アイルランド併合の際に解放が約束され、オコンネルの運動による1829年カトリック教徒解放令によって認められた。

政教分離を国制とした史上初の世俗国家はアメリカ合衆国である[33]1791年合衆国憲法修正第1条では国教の設置が禁止された[34]。政教分離が選ばれたのは、啓蒙主義思想によるだけでなく、新国家がイギリスにおいて宗教的に迫害された人々による「合衆国」であり[35][36]、異なった宗教的背景を持った人びとによって構成されていたためであった[37]。しかし、州の独立性は強く、ニューヨーク州メリーランド州ノースカロライナ州サウスカロライナ州ジョージア州監督派教会を、マサチューセッツ州コネチカット州ニューハンプシャー州会衆派教会を当初は公定教会としていた。


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