政教分離には、国教の禁止が「規制原理」として働き、信教の自由が「構成原理」として働くという二面性がある[23][24]。日本の憲法学では、政教分離は信教の自由を実現するための手段(制度的保障)であると言われる[25]。アメリカ合衆国憲法修正第一条
(英語版)の条文にも規制原理と構成原理の両面が見られる[24]。ジョン・ヴィッテ(英語版)は国教の禁止の側面を重視する立場を「厳格分離主義」、信教の自由の側面を重視する立場を「不偏許容主義」と呼んだ[24]。宗教改革で信教の自由が成立したといわれるが、ツヴィングリ派や他派の自由が認められたわけではなかった。その後の宗教戦争を経て、信教の自由が普遍的に相互承認されるようになり、それを政治的に保障するための制度としてヨーロッパにおいて政教分離制度が成立した[17]。また、信教の自由を成り立たせているものは寛容思想であり、寛容を制度化したものが政教分離であるとされる[17]。
このことから、伊藤潔志は「政教分離の本質は, 政教関係の有様ではなく, 信教の自由が保障されていることにあるのである。 したがって, 政教分離は信教の自由を保障している国家における政教関係である」と述べ、さらに、信教の自由や政教分離を認めない国家に対してそれを普遍的な政治原則とみなして認めるよう働きかけていくことは信教の自由に反することにならないかと述べている[17]。
軍と宗教空母ハリー・S・トルーマン艦内で、復活大祭の聖体礼儀を司式する正教会の従軍司祭と、参祷する乗組員達(2004年4月11日)
キリスト教圏の国では政教分離を国制とした後も、軍隊で従軍聖職者を雇用している。厳格に分離しているアメリカやフランスでも、空母に礼拝所を設置したり宗教行事を執り行うことが容認されている。
自衛隊に宗教活動に従事する職種(兵科)は存在しないが、艦内神社の勧請や駐屯地への神棚設置、装備品のお祓い[26]など、防衛省が主導せず費用を負担しない神事が容認されている。
歴史詳細は「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」および「アメリカ合衆国における政教分離の歴史」を参照
一般的な理解としては政教分離と信教の自由は、西欧においては16世紀の宗教戦争に端を発し、フランス革命で一応形が整う国家の世俗化の産物とされる[27]。中山勉によれば、政教分離は「信教の自由のための制度的保障であり、単に政治と宗教が別次元で活動しているという状況、ないしはその主張を指すものではない」「あらゆる宗教の信教の自由を目的にしているか否かが、政教分離が存在しているかどうかの判断基準」となるとする[28]。
962年にオットー1世がローマ教皇ヨハネス12世により「ローマ皇帝」に戴冠され、この神聖ローマ帝国以来ヨーロッパはキリスト教に統一された世界国家となり、最盛期に教会は莫大な土地を領有し、教皇の世俗的権力が強大となった[29]。中世では国家と教会が密接に結合しており、公認の宗教以外は異端とされた[30]。
叙任権闘争、宗教戦争、フランス革命の3つがヨーロッパにおける政教分離の展開における重要な画期となった[31]。宗教改革や初期資本主義の進展によって、教会権力と国王権力が対立し、近世に国王権力は絶対君主制を樹立した[29]。しかし、それも18世紀のフランス革命以降崩壊し、宗教的寛容と国家の宗教的中立の制度が広まった[30]。