政教分離
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一方、正教は特別な役割を持つとされ、事実上の国教の位置を占め、キリスト教、イスラム教、仏教、ユダヤ教は伝統宗教であるとされた[16][19]。しかし、2002年に教皇ヨハネ・パウロ二世が布教組織を1917年以前に戻すと決定すると、正教会は反発し、ロシア外務省はバチカンに決定の取り消しを求め、カトリック司教のビザが没収され、再入国を禁止されるとともに各地でカトリック教会の建設が禁止された[19]。また公教育でロシア正教会は別格に扱われており[19][21]、正教会の教理が正規科目とされるなど、ロシアは「正教国家」に向かっているといわれる[19]

中華人民共和国 - 中国共産党の党員が宗教を信仰することは禁止されているが、公民の信教の自由と無神論を宣伝する自由が中華人民共和国憲法で認められている(第36条、第46条)[22]

朝鮮民主主義人民共和国 - 朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法第68条で、公民の信教の自由が保障されている。仏教寺院、キリスト教会などの他「統一協会」の施設があり、その建設・運営には国の制度上、国家指導部の大きな理解と援助なくして成立しえない。また、天道教青友党が存在し、儒教文化が深く根付いた社会でもある。一方で宗教文書を配布したとして外国人が罪に問われた例もあり、正確な実態は不明である。

厳格分離主義と不偏許容主義

政教分離には、国教の禁止が「規制原理」として働き、信教の自由が「構成原理」として働くという二面性がある[23][24]。日本の憲法学では、政教分離は信教の自由を実現するための手段(制度的保障)であると言われる[25]。アメリカ合衆国憲法修正第一条(英語版)の条文にも規制原理と構成原理の両面が見られる[24]。ジョン・ヴィッテ(英語版)は国教の禁止の側面を重視する立場を「厳格分離主義」、信教の自由の側面を重視する立場を「不偏許容主義」と呼んだ[24]
政教分離と信教の自由と寛容

宗教改革信教の自由が成立したといわれるが、ツヴィングリ派や他派の自由が認められたわけではなかった。その後の宗教戦争を経て、信教の自由が普遍的に相互承認されるようになり、それを政治的に保障するための制度としてヨーロッパにおいて政教分離制度が成立した[17]。また、信教の自由を成り立たせているものは寛容思想であり、寛容を制度化したものが政教分離であるとされる[17]

このことから、伊藤潔志は「政教分離の本質は, 政教関係の有様ではなく, 信教の自由が保障されていることにあるのである。 したがって, 政教分離は信教の自由を保障している国家における政教関係である」と述べ、さらに、信教の自由や政教分離を認めない国家に対してそれを普遍的な政治原則とみなして認めるよう働きかけていくことは信教の自由に反することにならないかと述べている[17]
軍と宗教空母ハリー・S・トルーマン艦内で、復活大祭聖体礼儀を司式する正教会の従軍司祭と、参祷する乗組員達(2004年4月11日)

キリスト教圏の国では政教分離を国制とした後も、軍隊で従軍聖職者を雇用している。厳格に分離しているアメリカやフランスでも、空母に礼拝所を設置したり宗教行事を執り行うことが容認されている。

自衛隊に宗教活動に従事する職種(兵科)は存在しないが、艦内神社の勧請や駐屯地への神棚設置、装備品のお祓い[26]など、防衛省が主導せず費用を負担しない神事が容認されている。
歴史詳細は「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」および「アメリカ合衆国における政教分離の歴史」を参照

一般的な理解としては政教分離と信教の自由は、西欧においては16世紀の宗教戦争に端を発し、フランス革命で一応形が整う国家の世俗化の産物とされる[27]。中山勉によれば、政教分離は「信教の自由のための制度的保障であり、単に政治と宗教が別次元で活動しているという状況、ないしはその主張を指すものではない」「あらゆる宗教の信教の自由を目的にしているか否かが、政教分離が存在しているかどうかの判断基準」となるとする[28]

962年にオットー1世がローマ教皇ヨハネス12世により「ローマ皇帝」に戴冠され、この神聖ローマ帝国以来ヨーロッパはキリスト教に統一された世界国家となり、最盛期に教会は莫大な土地を領有し、教皇の世俗的権力が強大となった[29]。中世では国家と教会が密接に結合しており、公認の宗教以外は異端とされた[30]

叙任権闘争宗教戦争フランス革命の3つがヨーロッパにおける政教分離の展開における重要な画期となった[31]宗教改革や初期資本主義の進展によって、教会権力と国王権力が対立し、近世に国王権力は絶対君主制を樹立した[29]。しかし、それも18世紀のフランス革命以降崩壊し、宗教的寛容と国家の宗教的中立の制度が広まった[30]

フランスでは1516年の政教条約によって国教制度がとられ、カトリックは特権的地位を与えられた[29][32]ナントの勅令後は 「寛容」が認められプロテスタントにも信仰の自由は認められていたが、1685年に廃止され、1789年まで国教制度が存続した[32]1789年フランス人権宣言は第10条で「何人もその意見について、それがたとえ宗教上のものであっても、その表明が法律の確定した公序を乱すものでないかぎり、これについて不安をもたないようにされなければならない。」とカトリック以外の宗派を含む信教の自由を明記した[29]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}また、1792年9月20日には国民公会が、出生や結婚、死亡などの民事的身分の届け出を教会から自治体に変更し、結婚届けも民事婚にする法案を可決。さらに、西暦の廃止すなわち革命暦の採用、教会資産の国有化、修道会が運営していた寄宿制度(コレージュ)の廃止など革命政府はカトリック教会と対立した[要出典]。しかし、聖職者世俗化法で「至高尊者」などの名の下にカトリックに代わる新たな公的祭祀が行われた[32]ナポレオンと教皇ピウス7世は、コンコルダ(政教条約)を締結し、カトリック中心の公認宗教制となった[32]。このコンコルダ体制では、プロテスタント、ユダヤ教も認可したものの、カトリック国教制であった(1814年憲章、1830年憲章・1848年憲法)[32]。その後、第三共和制のもとでは、修道会が廃止され、公教育機関の非宗教化と、教会と国家との分離がはかられた[32]。フェリー法(1881年)では初等教育の非宗教性が定められ、ゴブレ法(1886年)では聖職者を初等教育から排除され現在のライシテへとつながっていく政策がとられ、1901年の結社法では、修道会設立を政府許可制にした[32]


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