政教分離
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

逮捕されたセルギーは教会の消滅を恐れて1927年、ソヴィエト国家に対するロシア正教会の忠誠を誓約した[16]。1929年、全64条から成る宗教団体に関する法律と宗教団体の権利と義務に関する内務人民委員部指令が発効し、宗教団体 は20 人制によって登録を厳しく制限され、また慈善活動や伝道活動も禁止され(第17条)、さらに人民委員会付属の信仰問題委員会が設置され正教会など宗教団体は国家の支配の下に置かれ、30年代にはロシア正教会は組織としてはほとんど存在しなくなった[16]。革命後1930年代までに7万2千人?7万7千人のロシア正教会司祭が処刑・投獄された[20]

しかし、1941年に独ソ戦が開始すると、スターリンは戦意昂揚のために政教和解の方針を取り、戦闘的無神論者同盟を解散したり、総主教制の復活を認めた[16]。また、スターリン政権にとって反体制運動の温床となり得るキリスト教諸派をロシア正教会に吸収する狙いもあった[16]。1943年にはソヴィエト人民委員会議付属ロシア正教会問題評議会が、1944年には正教会以外の宗教団体のための宗教信仰問題評議会が設置され、1966年に、ソ連邦閣僚会議付属宗教問題評議会として統合された[16]。評議会議長は、帝政時代の宗務院総長さながら、「無神論国家の宗教大臣」の役割を担ったといわれる[16]フルシチョフ政権は苛烈な宗教攻撃を再開し、ロシア正教会は約一万の教会を失った[16]

1988年、ゴルバチョフはピーメン総主教に対してソヴィエトの教会弾圧について謝罪し、政教和解を申し入れ、1990年の信教の自由に関するロシア連邦共和国法においてロシア史上初めて信教の自由が認められた[16]。同法は信教の自由を保障し(第3条)、宗教団体または無神論団体の国家からの分離、教育制度の世俗的性格など政教分離原則が明文化された(第5条)[19]。ゴルバチョフはローマ法王とも会見し、バチカン外交部が開設され、1991年には暫定的な布教区が復活された[19]
ロシア連邦の政教関係
1997年宗教法

1991年12月にソ連は崩壊した。ソ連崩壊とともに社会的混乱が生じて、カルト集団が大きな影響力を持つようになった[58]。この頃から正教君主制の復活やロシア正教の国教化を説くロシア正教ナショナリズムが台頭していった[19]。ロシア正教会は「事実上のロシア国教会」を自認し、外国からの宗教活動や宣教師の入国を制限するように政府に圧力をかけていった[59]

1993年6月、ロシア正教会の要望で、「非ロシア的・非伝統的」な宗教の登録を厳しく規制するゴルバチョフ宗教法改正法案が議会を承認したが、反対もあり廃案となった[60]

1993年12月12日に制定されたロシア連邦憲法ロシア連邦は世俗国家であり、宗教団体と国家は分離され(第14条)、信教の自由が保障された(第28条)[19]

1996年7月のロシア国家会議は新宗教法改正案を作成し、信教の自由の保障を原則としていたのに対して、ロシア正教会は「非ロシア的・非伝統的」な宗教の排除を求めた[60]。1996年の調査ではロシア正教を肯定する国民は88%にのぼった[19]

1996年、エリツィン大統領就任式には総主教アレクシイ2世が最前列に並んだ[61]

1997年9月26日エリツィン政権で「良心の自由(信教の自由)と宗教団体に関するロシア連邦法」 ( 宗教法 )が発効した[注釈 4][16][19]。この1997年宗教法は、1990年の信教の自由に関するロシア・ソヴィエト連邦共和国法の改正作業の結果であり、またロシア正教会の意向を相当程度受け入れたものであった[65]。前文で、ロシア連邦は世俗国家であるが、『ロシアの歴史、その精神性および文化の形成と発展における正教の特別な役割を認める』と謳われた[60][注釈 5]。これによって、ロシア正教会は法制上も事実上の国教会の地位を確固たるものにした[16][59]。また、それに続く前文でロシアの伝統的な諸宗教である「キリスト教、イスラム教、仏教、ユダヤ教、その他の宗教」に触れていることから[注釈 6]、正教とこれらの宗教が伝統宗教として明文化されたとされる[19]。良心の自由、信教の自由に対する権利(第3条)、公教育機関における教育の世俗的性格と宗教教育を受ける権利も保障され、世俗国家ロシアにおける国家の宗教的中立と宗教団体の政治的中立が明文化された(第4条)[16][19]。一方で、国家登録を済ませ15年以上の存続を条件を満たさない宗教団体には法人格を与えないとし(第11条)、外国の宗教組織はロシアで宗教活動はできないとされた(第13条)[19]。さらに、民族的・宗教的不和の煽動や、人間憎悪の煽動、家族崩壊の強制、自殺や医療拒否の勧誘、義務教育の妨害、財産の団体への譲渡の強制などの活動を禁止された[19]。この宗教法の下、宗教組織のヒエラルキーが成立し、最上位を多数派正教とし、イスラム教、仏教、ユダヤ教、ローマ・カトリック、プロテスタント諸宗派までが伝統宗教であるとされ、その他の宗教セクトとして古儀式派、その他のプロテスタント、新宗教運動などが位置づけられた[19]。このように1997年の宗教法は信教の自由よりも、宗教のヒエラルキーを強化しているため、ロシアは「正教国家」に向かっているとも指摘されている[19]。この宗教法は欧米やローマ教皇から批判があったが、エリツィンはロシア憲法とこの宗教法は矛盾しているが、宗教を野放しにすると混乱を生み出すためにこの法を制定したと回顧している[61]

しかし、この宗教法以後も宗教団体へのロシア政府の扱いには問題が多く発生している。エホバの証人は正教徒7千万人、イスラム教徒900万人、仏教徒90万人に次いで、信徒数28万人に達するロシア第四の宗教団体であるが、エホバの証人に対して検察は団体登録取消訴訟を開始した(エホバの証人側が勝訴)[19]
ローマ教会と正教会

ローマ・カトリック教会問題もあり、2002年に教皇ヨハネ・パウロ二世がロシア布教組織を1917年以前の状態に戻すと決定し、モスクワに大司教区を置くとした[19]。ロシアには11万人、外国人を含めて40万人のカトリック信徒がいる[19]。この決定にロシア正教会は反発し、アレクシイ2世総主教はバチカンによるロシアでの宣教を拒否すると述べ、さらにロシア外務省はバチカンに決定の取り消しを求め、カトリック司教のビザが没収され、再入国を禁止された[19]。テレビ番組「ロシアの家」はカトリックの侵略に対して行動を起こせと放映された[19]プスコフのカトリック教会は工事が停止され、アルタイ共和国ではカトリック大聖堂の建設が禁止された[19]。また下院議会では、ロシアではカトリック教徒に対するいかなる迫害もないと明言され、カトリック問題の審議は拒否された[19]。ロシアのカトリック大司教コンドルセービチは、カトリックへの迫害は違法であると是正を求めたが、下院総会ではローマ・カトリック教会は公式サイトで南サハリンとクリル諸島が「樺太」と表示されており、日本のロシアへの領土要求を意図的に煽っており、これはロシア連邦の統一を脅かすものであるため、ロシアにおけるカトリック教会の活動は禁止されなければならないと訴えられた[19]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:244 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef