1905年ロシア第一革命後に皇帝ニコライ2世と内務大臣ブルイギンは信教の自由勅令を発し正教以外の信仰の自由を容認した[16]。
ソビエト連邦「ロシア正教会の歴史#ソ連:無神論政権による弾圧の時代」および「ティーホン (モスクワ総主教)#ボリシェヴィキによる宗教弾圧への抵抗」も参照
ロシア革命後のソビエト連邦は無神論国家として「反宗教」を国是とし、国家の宗教統制が徹底的に行われ、宗教信仰の自由はまったく認められなかった[16][17]。ソ連では正統的マルクス・レーニン主義以外の思想は許可されなかったため、「真理の独占体制」とも呼ばれる[16]。キリスト教のローマ・カトリック、ロシア正教会は弾圧と厳しい制限を受けて、一時は消滅した。イスラム教もムスリム宗務局によって統制された。
ロシアのローマ・カトリックは20世紀初頭にはロシアに50万人以上の教徒がいたが、1920年代末までにカトリック布教区は消滅した[19]。
ロシア正教会も弾圧を受けた。ピョートル1世が廃止した総主教座を復活させてティーホンはモスクワ総主教に就任したが、ソビエト政権は土地に関する布告によって1890万エイカーの正教会の土地を没収し国有化した[16]。1918年の国家と教会および教会と学校の分離に関する布告では、政教分離の原則を確立するとともに、教会から法人格と所有権を剥奪し、教会施設と教会資産は国有化された[16][18]。ティーホンは1922年に逮捕収監され、翌年の裁判で反ソ的態度の放棄を誓った[16]。
1922年6月1日に発効したソ連邦刑法では教会と国家との分離規定違反が定められた(第119 -125条、227条)[16]。政府の法律へ反抗するために宗教的迷信の利用は禁固刑または強制労働、戦時の市民の兵役義務を妨げ煽動もしくは宣伝を行った場合は極刑とされた[16]。また協同組合の設立、宗教団体の構成員への援助、児童への宗教教育や聖書や宗教書の研究も禁止され、小旅行や児童用の遊び場、図書館、読書室、サナトリウム、医療活動を組織することなども禁止された[16]。またボリシェヴィキ党のエメリヤ ン・ヤロスラフスキーがソ連邦無神論者同盟を組織し、反宗教キャンペーンを展開した(1929年に戦闘的無神論者同盟に改組)[16]。
ティーホンが生前指名していた総主教代理3名も逮捕された[16]。逮捕されたセルギーは教会の消滅を恐れて1927年、ソヴィエト国家に対するロシア正教会の忠誠を誓約した[16]。1929年、全64条から成る宗教団体に関する法律と宗教団体の権利と義務に関する内務人民委員部指令が発効し、宗教団体 は20 人制によって登録を厳しく制限され、また慈善活動や伝道活動も禁止され(第17条)、さらに人民委員会付属の信仰問題委員会が設置され正教会など宗教団体は国家の支配の下に置かれ、30年代にはロシア正教会は組織としてはほとんど存在しなくなった[16]。革命後1930年代までに7万2千人?7万7千人のロシア正教会司祭が処刑・投獄された[20]。
しかし、1941年に独ソ戦が開始すると、スターリンは戦意昂揚のために政教和解の方針を取り、戦闘的無神論者同盟を解散したり、総主教制の復活を認めた[16]。また、スターリン政権にとって反体制運動の温床となり得るキリスト教諸派をロシア正教会に吸収する狙いもあった[16]。1943年にはソヴィエト人民委員会議付属ロシア正教会問題評議会が、1944年には正教会以外の宗教団体のための宗教信仰問題評議会が設置され、1966年に、ソ連邦閣僚会議付属宗教問題評議会として統合された[16]。評議会議長は、帝政時代の宗務院総長さながら、「無神論国家の宗教大臣」の役割を担ったといわれる[16]。フルシチョフ政権は苛烈な宗教攻撃を再開し、ロシア正教会は約一万の教会を失った[16]。
1988年、ゴルバチョフはピーメン総主教に対してソヴィエトの教会弾圧について謝罪し、政教和解を申し入れ、1990年の信教の自由に関するロシア連邦共和国法においてロシア史上初めて信教の自由が認められた[16]。同法は信教の自由を保障し(第3条)、宗教団体または無神論団体の国家からの分離、教育制度の世俗的性格など政教分離原則が明文化された(第5条)[19]。ゴルバチョフはローマ法王とも会見し、バチカン外交部が開設され、1991年には暫定的な布教区が復活された[19]。 1991年12月にソ連は崩壊した。ソ連崩壊とともに社会的混乱が生じて、カルト集団が大きな影響力を持つようになった[58]。この頃から正教君主制の復活やロシア正教の国教化を説くロシア正教ナショナリズムが台頭していった[19]。ロシア正教会は「事実上のロシア国教会」を自認し、外国からの宗教活動や宣教師の入国を制限するように政府に圧力をかけていった[59]。 1993年6月、ロシア正教会の要望で、「非ロシア的・非伝統的」な宗教の登録を厳しく規制するゴルバチョフ宗教法改正法案が議会を承認したが、反対もあり廃案となった[60]。 1993年12月12日に制定されたロシア連邦憲法でロシア連邦は世俗国家であり、宗教団体と国家は分離され(第14条)、信教の自由が保障された(第28条)[19]。 1996年7月のロシア国家会議は新宗教法改正案を作成し、信教の自由の保障を原則としていたのに対して、ロシア正教会は「非ロシア的・非伝統的」な宗教の排除を求めた[60]。1996年の調査ではロシア正教を肯定する国民は88%にのぼった[19]。 1996年、エリツィン大統領就任式には総主教アレクシイ2世が最前列に並んだ[61]。 1997年9月26日、エリツィン政権で「良心の自由(信教の自由)と宗教団体に関するロシア連邦法」 ( 宗教法 )が発効した[注釈 4][16][19]。この1997年宗教法は、1990年の信教の自由に関するロシア・ソヴィエト連邦共和国法の改正作業の結果であり、またロシア正教会の意向を相当程度受け入れたものであった[65]。前文で、ロシア連邦は世俗国家であるが、『ロシアの歴史、その精神性および文化の形成と発展における正教の特別な役割を認める』と謳われた[60][注釈 5]。これによって、ロシア正教会は法制上も事実上の国教会の地位を確固たるものにした[16][59]。
ロシア連邦の政教関係
1997年宗教法