政教分離
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そのため、特定の宗教が政治に関わっても政教分離違反にならず[8]、フランスに比べて、宗教が機能する場がかなり広い[43]

フランスでは政治と宗教が厳格に分離される(Separation of Religion and Politics)のに対して、アメリカでは政府と特定の宗教団体との分離(Separation of Church and State)である[44]。アメリカにおいては、国家が特定の教会や教派のために公金を使ったり、特定の教会・教派の信者への優遇措置が違憲なのであり、多様な教会的伝統が国家形成に積極的に参与できるよう、特定の教派が突出した政治権力を行使できない枠組みを用意するという点に重点が置かれている[45]

アメリカではキリスト教的伝統は尊重され、アメリカの公的領域において一定の役割を果たすことは伝統的に是認されている[45]アメリカ合衆国ドルの紙幣・コインには"IN GOD WE TRUST(我々は神を信じる)"の文言が刻まれ印刷されているし、アメリカ合衆国議会には宣教師が専属している。

また、証言アメリカ合衆国大統領などの公職就任の際に、宣誓もしくは確約 (en:Affirmation) が求められるが、このうち宣誓は神に対する誓いであり、神に言及しない確約はクエーカーなどの宣誓を禁ずる教派の信徒のために用意されたものである。ロバート・ニーリー・ベラーによれば、アメリカには、教会と明確に分化された高度に制度化された「市民宗教」が、アメリカ人の生活の枠組みに宗教的次元を付与しており[43]、アメリカの最大公約数的な宗教がアメリカの公的領域で一定の役割を果たすことが伝統的に是認されている[44]

この市民宗教では、アメリカは神がイスラエルの民に与えると約束した「約束の地」「イスラエル」、アメリカ人は「選ばれた人々(選民)」、独立革命は「出エジプト」、独立宣言と憲法は「聖典」、ワシントンは「モーセ」、南北戦争リンカーンの死はキリストの死と再生に結び付けられており、「世界の光明」であるアメリカを世界規模に拡大することが目指される[43]

森孝一はベラーの「市民宗教」を「見えざる国教」と意訳し[44]、巡礼父祖(ピルグリム・ファーザーズ)のキリスト教と、建国父祖(ファウンディング・ファーザーズ)の啓蒙思想とが結合したものがアメリカの「見えざる国教」とする[43]独立宣言では、all Men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights
すべての人間は神によって平等に造られ、一定の譲り渡すことのできない権利を与えられている. ? 独立宣言,1776.森孝一訳[44]

と明記されるが、森孝一は「すべての人間は平等である」と非宗教的に表現することもできたが、キリスト教的な表現になったのは当時の大半の人々にとって自然であったからで、この状況は21世紀現在でも変わらず、アメリカの人口の90%がユダヤ・キリスト教的伝統の宗教を信仰している[44]

2001年にアメリカ同時多発テロ事件が発生して3日後の9月14日にはワシントン大聖堂で追悼礼拝が実施された[44]。ワシントン大聖堂はイングランド国教会系統の聖公会に所属する教会であり、森孝一は政教分離の原則を犯しても国家統合を優先させたい意図があったとしている[44]。追悼礼拝ではイスラームの聖職者、ユダヤ教の聖職者も招かれ、バクスター大聖堂牧師は「アブラハム、ムハンマド、そして私たちの主であるイエス・キリストの父なる神」と呼びかけ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つのセム一神教(アブラハムの宗教)が同じ一つの神を信仰する兄弟であるというメッセージがこめられた[44]。ブッシュ大統領は、アメリカへの攻撃は、創造主がアメリカに与えた「自由と平等」という理想への攻撃であり、この理想はすべての人類の希望である、と演説で語った[44]

司法では、合衆国最高裁判所は1961年のTorcaso v. Watkins訴訟で連邦・州政府において宗教に関する質問、検査、査察などを違憲とした[46]。1971年のレモン対カーツマン事件では、国家にゆるされる宗教的行為の条件として、政府の行為が適法で世俗的な目的をもつこと、宗教を助長または抑制しないこと、政府と宗教の過度の関係をもたらさないことの3要件を判示した。

2002年の「星条旗に対する宣誓」の中の「one Nation under God(神の下にある一つの国家)」という言葉に対する無神論者による訴訟において、サンフランシスコ第9連邦控訴裁判所は違憲と判決したが、連邦議会は圧倒的多数で反対決議し、世論調査では89%がこの言葉を残すべきであると答えた[44]

最高裁は2005年にマクリアリィ郡 v.アメリカ自由人権協会訴訟で、公共の場における他の宗教の文書なしの聖書のみの展示は違憲と判示した[47]。同年、刑務所における無神論者の服役が議論できる集会についてのCutter v. Wilkinsonで無神論も宗教と同等の保護されるべき法益であると判示した[48]

マーティ、ピラード、リンダーらによれば現在のアメリカでは、大統領が超越的な価値基準から国家や国民の行為を評価するリンカーンのような「預言者型」から、国家自体が究極の基準となり大統領は国民に国家賛美を求める「司祭型」へ移行してきた[43]。コールズは「預言者型」に「リベラルな市民宗教」を、「司祭型」に「保守的な市民宗教」が対応しているとする一方で、蓮見博昭は市民宗教が保守リベラルに分裂して、国民統合のための装置として機能しなくなったと指摘している[43]

公立の学校が宗教性を帯びた教育をすることに対して連邦最高裁は厳格であり、進化論教育を禁じる州法、創造論教育を義務づける州法(英語版)が違憲と判断された[42]。これを受け、一部の親が子どもを宗教系の学校に通わせる動きがある[41]
フランスの政教分離(ライシテ)詳細は「ライシテ」を参照

フランスの政教分離はライシテ (laicite) の原則に基づく[注釈 2]。ライシテとは国家の非宗教性、宗教的中立性の原則を意味するものであったが、1958年憲法では法の下の平等、差別の禁止、信条の尊重を含む概念へと強化され、法概念としては国家の非宗派性、教会と国家の分離などを含んでおり、あいまいさという柔軟性も持っている[12]。カトリック教会のような特定の宗派を優遇も冷遇もするのでなく、諸宗派に対して中立的で平等な対応をとることを定めた制度である[50]奥山倫明によれば、ライシテは国家と宗教との関係を定めたものなので、これを日本の憲法学者の宮澤俊義が述べたような「国家があらゆる宗教から絶縁し、すべての宗教に対して中立的な立場に立つこと、すなわち、宗教を純然たる『わたくしごと』にすることが要請される[51]」という厳しい分離を解釈していた意味で「政教分離」と呼ぶことは難しいと指摘している[50]

第三共和制のもとで修道会が廃止され、公教育機関の非宗教化と、教会と国家との分離がはかられた[32]フェリー教育相は1881年に公教育を無償化するとともに、初等教育の非宗教性が定められた(フェリー法)[32]。1884年の憲法改正では議会開会の祈りは廃止された[50]1886年には初等教育の公立学校から聖職者が排除された(ゴブレ法)[32]


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