政教分離
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フランスの政教分離はライシテ (laicite) の原則に基づく[注釈 2]。ライシテとは国家の非宗教性、宗教的中立性の原則を意味するものであったが、1958年憲法では法の下の平等、差別の禁止、信条の尊重を含む概念へと強化され、法概念としては国家の非宗派性、教会と国家の分離などを含んでおり、あいまいさという柔軟性も持っている[12]。カトリック教会のような特定の宗派を優遇も冷遇もするのでなく、諸宗派に対して中立的で平等な対応をとることを定めた制度である[50]奥山倫明によれば、ライシテは国家と宗教との関係を定めたものなので、これを日本の憲法学者の宮澤俊義が述べたような「国家があらゆる宗教から絶縁し、すべての宗教に対して中立的な立場に立つこと、すなわち、宗教を純然たる『わたくしごと』にすることが要請される[51]」という厳しい分離を解釈していた意味で「政教分離」と呼ぶことは難しいと指摘している[50]

第三共和制のもとで修道会が廃止され、公教育機関の非宗教化と、教会と国家との分離がはかられた[32]フェリー教育相は1881年に公教育を無償化するとともに、初等教育の非宗教性が定められた(フェリー法)[32]。1884年の憲法改正では議会開会の祈りは廃止された[50]1886年には初等教育の公立学校から聖職者が排除された(ゴブレ法)[32]。ピエール=ワルデック=ルソーは1901年修道会を政府認可制にした[32]1902年にエミール・コンブ首相はカトリック系学校約12,500校を閉鎖。これは教会財産の国家接収を意味し約3万人の修道士女が国外へ亡命した。1904年にルベ大統領がイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世を訪問するとローマ教皇庁はフランス政府と国交を断絶したが、1905年「教会と国家の分離に関する法律」(Loi de separation des Eglises et de l'Etat) が成立し、それまでの政教条約がフランス政府によって一方的に破棄された[32]。ただし、この1905年の教会国家分離法では自由な礼拝が保護され、さらに礼拝への公金支出禁止についての特例として学校の寄宿舎・病院・監獄・兵営には司祭の配置が認められており、厳密な国家と宗教との分離ではなかった[50][52]

ライシテが憲法に規定されたのは、1946年第四共和制憲法である[注釈 3][12]1958年成立のフランス第五共和国憲法に引き継がれた[12]。La France est une Republique indivisible, laique, democratique et sociale. Elle assure l'egalite devant la loi de tous les citoyens sans distinction d'origine, de race ou de religion.
フランスはライックで、民主的または社会的な不可分の共和国である。出生、人種、または宗教の差別なく、すべての市民に対し法の前の平等が保障される。 ? Constitution du 4 octobre 1958 ,Article 1

ルソーが論じた市民宗教は第三共和政で禁止されたが、21世紀現在のライシテを「共和主義的市民宗教」とする指摘もある[43]。ボベロはライシテが国民のアイデンティティとなって、「共和国の諸価値」と矛盾するイスラムの方に問題があるとするように、ここには「市民宗教」が持つ危険性が現れているという[43]。現代では「異教徒を排除してはならない」という宗教的寛容が、イスラム教徒の移民問題で議論されているが、移民反対論者はかつてのようなレイシズム的な排外主義ではなくて、リベラルな価値観を受容しない人々を排除しようとしているとも指摘されている[53]
ドイツの政教分離

ドイツでは宗教改革による対立を経てアウクスブルクの和議において、ルター派はカトリックと同等の権利を持ったが、同時に領邦教会制が成立した[32]。領邦教会制ではcuius regio, eius religio”「一つの領邦に属する者のすべてが一つの領邦教会に属する」とされた[32][54]。領邦教会司教が領邦君主であることもあり、世俗権力と宗教権力は密接な関係にある一方、カトリック教会も中世以来の世俗権力を有しており、トリアー、ケルン、マインツ大司は神聖ローマ帝国選帝侯でもあった[32]

1918年ドイツ帝国が崩壊しヴァイマル共和政となり、ヴァイマル憲法137条では「国の教会(Stasstskirche)は存在しない」と規定され、宗教団体設立の自由と宗教の自由も保障された[32]。しかし、教会は引き続き公法上の社団とされ、教会税徴収権も有し(137条)、公立学校で宗教は正規科目とされる(149条)など、ヴァイマル憲法においていわゆる「政教分離」制度が採用されたわけではない[32]

ヴァイマル憲法の規定は1949年のドイツ基本法140条でも取り込まれ、ドイツ基本法4条では個人の信教の自由を保障する[54]。しかし現在でも、宗教団体は「公法上の社団」の地位を与え、教会税の徴収も認められている[32][54][55]。そのため、H.P.マルチュケは「ドイツ連邦共和国では国家と教会(カトリック教会と福音主義教会)の分離の原則が行われているが、それは宗教的に無色の国家が教会の公共活動に無関心な態度をとるというのではなく、国家が特定の教会と一体化して他の教会ないし宗教団体を排除することなしに教会の活動を支援することを許容するものである」と解説する[55]。また宗教に関わる事項は、各ラントの権限に属し、連邦は権限を持たない[54]。また、公立学校における宗教の授業は、憲法上の正規科目とされている(基本法第七条三項)[32][54][55]。他面において、国家は、教会内の立法・裁判などに介入できない[55]

ドイツにおける国家と教会の関係は、カトリックとの関係では連邦と教皇庁の政教条約によって規律されている[55]。なお、1933年にカトリック教会とナチス・ドイツとが締結したライヒスコンコルダートも現在も連邦では効力を有している[54]。また、国家とドイツ福音主義教会(EKD)との関係では教会協定(教会条約)によって規律されており[55]、教会条約は1955年のニーダーザクセン州のロックム条約以降ほとんどのラントで類似条約が締結されている[54]
イタリアの政教分離

イタリアでは、1870年イタリア王国がローマを併合し、教皇国の処遇が問題となった[32]。王国政府は1871年教皇保障法で、教皇は特別の主権者とされ、独自の衛兵を保持し、国による経費の負担が保障したが、聖座は一方的行為として受け入れなかった[32]。王国憲章第1条ではカトリック教は国の唯一の宗教とされていたが、政権を掌握していた自由主義的政治家は、教会財産を没収するなど反カトリック政策を遂行していたことも背景にあった[32]。決着をみたのは、1929年ムッソリーニイタリア王国ローマ教皇庁ラテラノ条約で、第一条で「イタリアは、使徒伝承のローマのカトリック教は国の唯一の宗教である」とし、またバチカン市国を成立させた[32][56]


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