政党制
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競合的かつ効率的な民主主義として二大政党制と穏健な多党制を指摘した[4]。二大政党制に入れられたのはアメリカ、イギリスなどである。穏健な多党制に入れられたのはベネルクス三国などである。これらの政党制における特徴は、イデオロギーの差異が小さいことである。

サルトーリの念頭にあったのは、デュベルジェに対する批判ではなく、その拡張である。デュベルジェは二党制が効率的な民主主義であると結論づけたものの、サルトーリは穏健な多党制も効率的な民主主義であると結論づけた。

様々な修正を受けながらも、この分析は最も大きな影響力を持つものとして政治学者の間で広く受け入れられている[5]

無党制

一党独裁制

一党制

ヘゲモニー政党制


複数政党制

一党優位政党制

一大政党制


二大ブロック制

二大政党制


穏健な多党制

三大政党制

北欧五党制


分極的多党制

原子化政党制 - 無数に政党が存在するものの、他党に影響力のある政党が一つも存在せず、すべての政党がめぼしい実績や大衆からの支持を持たない。また、この政党制では、政党自体が大衆政党のように高度な組織化がされておらず(すべての政党が名望家政党ミニ政党に等しい)、なおかつ選挙政局によって離合集散を繰り返す流動的・便宜的な組織である。


レイプハルト

反論したのはレイプハルトである。レイプハルトは政治制を取り扱ったものの、政党制が理論の核とも言える重要性を持つ。

レイプハルトは有効議会政党数を手がかりに、2党制、2.5党制、優位政党のある多党制、優位政党のない多党制とに分類した。その上で2党制と2.5党制とを多数決型民主主義またはウェストミンスター・システム・モデルとし、優位政党のある多党制と優位政党のない多党制とを合意形成型民主主義またはコンセンサス・システム・モデルとした[6]。サルトーリによる分析との関連性は以下の通りである。

多数決型民主主義

二大ブロック制


合意形成型民主主義

一党優位政党制

穏健な多党制

分極的多党制

原子化政党制

そして、レイプハルトは多くの面において多数決型民主主義より合意形成型民主主義が優れているという分析を36か国の検証により提唱した。マイノリティの代表性における度合いでは高いことに加えて、経済的業績では両者に有意な差がないことを主張している。サルトーリはレイプハルトに「全く付いてゆけない」と再反論している。
議論

無党制は政党活動が禁止されているか、事実上存在しない間接民主主義である。前者は1986年から2005年までのウガンダであり[注釈 1]、後者はミクロネシアである[注釈 2]。全議員が無所属という形となる。

一党独裁制、一党制、ヘゲモニー政党制は独裁政治である。一党独裁制はナチス・ドイツなどである。一党制はソビエトなどである。ヘゲモニー政党制は東ドイツなどである。

複数政党制はロシアなどである。

一大政党制はラジーヴ・ガンディーの時代におけるインドなどである[7][8]

三大政党制は西ドイツなどである[9]

北欧五党制はスカンディナヴィア三国などである。有効議会政党数は五党という形となる[10]

原子化政党制はマレーシア[注釈 3]などである。混乱期や政治体制の移行期、いわゆる「上からの民主化」が成された国家などに多くみられるとされる。マレーシアの他に、クライアンテリズム[注釈 4](恩顧主義)の影響力が強く政党の組織力[注釈 5]が弱いフィリピン、王権の強い立憲君主制のタイなどが原子化政党制に近いとされるが、相違点もある。

サルトーリはフランス第五共和政における二回投票制が優れた選挙制度であるという結論を著述している。

フランス第五共和政のフランスは二大政党制と穏健な多党制の中間的な政党制となる二大ブロック制または二ブロック的多党制である[11]。二つの政党群が選挙によって競い合い、勝者となる政党群におけるリーダー格である政党の党首が首班指名を受けるのがサルトーリの想定である。

しかし、近年のフランスでは第三勢力の国民連合が台頭してきているほか、イギリスやカナダでも伝統的なトーリー党ホイッグ党レイバー党が併存している状況となっているため、想定外の事態になっていると言えなくもない[12]1993年以降のイタリアにおける状況の方が想定に近いものの、小選挙区制と比例代表制が混在している選挙制度には批判もある。なお、サルトーリは母国のイタリアで選挙制度改革による分極的多党制の解消と二大政党制の実現を目指している。

日本政治家も政党制のあり方に対する支持・不支持を表明している。国民民主党は二大政党制を推奨しており[13]社会民主党は穏健な多党制を推奨している[14]

冷戦の終了とグローバル化情報化の進展は影響を与えつつある[15]
日本
憲法制定前および明治憲法下

日本の政党は、1874年1月の征韓論論争に敗れて下野した板垣退助が結成した愛国公党に起源を持つ。1881年には自由党1882年には大隈重信立憲改進党が結成された。フランス流進歩主義やイギリス流自由主義を目指す民党吏党は対立関係となったため、政府は民党を取り締まったり、ドイツ流保守主義を目指す御用政党の立憲帝政党を創設したりしたものの、有効な対策とならなかった。1889年明治憲法が制定された後も政府はしばらく議会や政党に対して超然主義を採ったものの、日清戦争で政府と民党の協力関係が成立したのを契機に流れが変わり、1898年には自由党と進歩党が合同して憲政党を結成し、日本最初の政党内閣として「隈板内閣」が誕生した[16]

憲政党が自由党系の憲政党と改進党系の憲政本党に分裂し、前者は1900年伊藤博文立憲政友会を結成した。これを与党とした第4次伊藤内閣は政党政治に道を開いた[17]

一方の憲政本党は1910年立憲国民党1913年立憲同志会1916年憲政会を経て、1927年立憲民政党となった。そして明治時代末まで政友会の西園寺公望と立憲同志会の桂太郎による政権交代が繰り返された[16]

さらに二度の「憲政擁護運動」に代表される大正デモクラシーを経て「憲政の常道」による慣例が生まれ、政友会と民政党による政党政治が展開されるようになった[16]

またロシア革命資本主義の高度化による労働者階級の発展などを背景として日本共産党1922年結党、1935年中央委員会壊滅)や労働農民党1926年結成、後に分裂して日本労農党社会民衆党全国大衆党結党)などの無産政党が出現するようになり、1928年の普通選挙では無産政党から計8名の当選者が出ている[16]


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