改暦
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その方法として余日を週に属させず曜日を付けない方法、1か月を28日(4週間)を基本として、余日で「13月」を構成させたり(国際固定暦)、12か月のうちの特定月を35日(5週間)などとして調整する方法、閏年の概念を変更して閏日を廃止して閏年には閏週を設置する方法(この場合、原則は5で割り切れる年が閏年となり、5で割り切れても例外的に平年となる年を設置することとなる)等が挙げられる。

月と週の併用をやめてどちらかを廃止
1年を52週+余日とする案、逆に7日を1週間とする概念を廃止して必要があれば5日もしくは6日(前者は365の後者は366の約数である)とした新しい概念に基づく「週」(あるいはそれに替わるもの)を設置する。

国際的な改暦の動きとして1885年にフランス天文学会が改暦案の懸賞を行ったのを機に様々な議論が行われ、1922年ローマで開かれた国際天文学連合総会では改暦を検討する委員会が設置されて、「1年を52週とし、余日となる平年1日・閏年2日を週には加えない。1年を13週(91日)からなる4季に分割して、それぞれの季は30日からなる2か月と31日からなる1か月で構成される。年始を現在の12月22日(大抵の場合冬至あるいはその前日となる)に変更する」とする3原則に基づく改暦案が提案されたが、余日を週に加えるべきだとする反対論が多く可決されなかった。

これを受けて、翌1923年には国際連盟において改暦案を募集するとともに各国政府に改暦委員会の設置を求める決議が出されたが、前者は185の案が寄せられたものの、後者はフランス・イタリアアメリカなど15か国に留まり、主要国でも日本やイギリスなどは設置しなかったため失敗に終わった。

その後、1930年から翌年にかけて議論が再燃し、1830年代にイタリアのマルコ・マストロフィニが考案した案を基にした世界暦の制定を目指す世界暦協会の結成などもあったものの、ナチスの台頭、満州事変の発生などの国際情勢の緊迫化から議論は先送りされ、1955年には国際連盟を引き継いだ国際連合で再度議論が行われたものの、アメリカなどの時期尚早論に押されて翌1956年には逆に改暦議論の無期延期の決議がされるに至った。

現在でも改暦を唱える人々や団体は多いが、グレゴリオ暦以上に閏年・週の扱いが簡便であると言える暦法が見つかっていないこと、ネットワーク社会グローバリズムの進展の中で、暦における「世界の一体化」も進行すると考えられており、国際社会が共有できる改暦案が成立できない限りはグレゴリオ暦からの根本的な改暦は事実上不可能であると考えられている。
宣明暦の「改暦」
概要

貞観4年(862年)から採用された宣明暦は最終的には貞享元年(1684年)まで、823年間の長きに亙って使用されることとなったが、その間に本来の暦算結果によって編纂された暦に対して、月の大小や閏月の配置を変更することで意図的に暦の日付や干支を変えることが行われた。こうした変更のことも「改暦」と称した(ただし、宣明暦の前の大衍暦時代にも1度だけ改暦が行われている)。そのため、今日において暦法の正規の計算方法に従って過去の暦日を算出した場合においても、意図的な「改暦」によって実際に実施された暦と違う場合がある。それどころか、暦の頒布が完了した後で「改暦」が行われたために、現存する暦の日付と実際に行われた暦の日付が異なるという事態も発生し得た。

その実施理由を大きく分けると次の理由に分類可能である。

朔旦冬至の実現及び回避(臨時朔旦冬至)

四大の回避

閏8月の回避

閏月によって発生する日数の過大を抑えるため

その他

朔旦冬至を巡る「改暦」

中国で採用され、日本に導入された太陽太陰暦の初期の法則に「章」という概念があった(「章法」)。これは、19年が必ず235か月(19年×12か月+7か月)の周期が繰り返されるというもので、その結果19年のうちに7回の閏月が生じることとなる。前の章から新しい章への移行の年のことを「章首」と呼んだが、章首の年には前の章の最後に生じる7番目(最後)の閏月を終えた後に到来するその年の冬至をもって新しい章への切替が行われ、その日は必ず11月1日となるものとされていた。これを朔旦冬至(さくたんとうじ)と称して、暦の諸原則が上手く機能して政治が順調に推移している証拠とされて大規模な儀式をもって祝われた。

ところが、章の原則(章法)と実際の太陽日が合致するわけではなかったため、中国では時々暦法の改暦が行われた。当初は章の原則を維持する暦法が用いられていたが、後には章そのものは存続させるものの、太陽年との合致を優先するようになった。こうした章の原則に拘らない暦法を破章法と呼ぶ。日本でも初めての暦法の改暦となった儀鳳暦(唐の麟徳暦)以後は破章法が導入された。そのため、冬至の予定日がずれて章の最初となるべき冬至が朔旦冬至にならない例も出現した。当初、朔旦冬至は注目されていなかったために問題は生じなかったが、延暦3年(784年)に桓武天皇が朔旦冬至の儀式を導入して以後、こうした例が深刻視されるようになった。大衍暦時代の貞観2年に章の最初の冬至が11月2日ユリウス暦860年12月18日)になることが判明した際に菅原是善らの意見により、冬至の前に大の月を1つ増やして冬至の予定日であった11月2日を11月1日に修正した[1]。2年後に宣明暦が導入されると、こうした改暦が恒常化した。特に承平6年は章首であるにもかかわらず、冬至が11月30日(ユリウス暦936年12月16日)となったために暦が乱れたとして「暦家の失」「先儒の失」「不吉の例」と非難された。それ以後、これが悪例として考えられるようになり、その教訓から月の大小や閏月を「改暦」して強引にでも朔旦冬至を実現させるようになった。

一方、本来の章の原則では章首以外に11月1日の冬至は存在し得なかったのであるが、破章法である宣明暦では章首の冬至が必ず11月1日になるとは限らないのと同じように、章首から11年目の年の冬至がずれることによって稀に11月1日に当たることがあった(臨時朔旦冬至)。これもまた不吉な例として嫌われ、11月1日が冬至に重ならないよう改暦する操作が行われた。後には朝廷儀礼の衰退とともに朔旦冬至への関心が次第に低下したこともあり、応仁2年(1468年)を最後に、章の最初を朔旦冬至とする方針が放棄されて章首とは無関係に朔旦冬至が祝われるようになったが、戦国時代弘治元年(1555年)には財政難を理由に朔旦冬至を回避したのを最後にこうした改暦は行われなくなった。

なお、朔旦冬至の実現のための改暦が17回、回避のための改暦が6回行われている。
四大の回避を巡る「改暦」

太陰太陽暦においては原則では、朔望月に合わせて30日からなる大の月と29日からなる小の月が交互に訪れる。だが、月の動きによって生じる朔望月のズレから大の月や小の月が数か月続くことがあった。初唐に定朔に基づく戊寅暦が採用されたが、平朔を支持する李淳風がこの暦ではズレが蓄積されて大の月が4か月続く事態になるとして強く反発した。その後、李淳風が定朔を維持しつつ作成した麟徳暦は大の月が4か月連続するのは異常であるとしてこれを大小の入替などで回避する規則が導入され、同暦が儀鳳暦として日本に導入されて以後、大の月が4か月続くことを避けて、そうした場合には月の大小の差し替えや閏月の差し替えによってこれを避ける改暦がなされることとなった。なお、前述の朔旦冬至との関係で大の月が4か月続く場合には二重の改暦を施した。

ただし、その方法は時期によって違い、この例による最古の「改暦」が行われた康保元年(964年)から寛治2年(1088年)までの5回は前後の大小の月の入替で対応した。続いて、建仁2年(1202年)と弘安4年(1281年)の2回は閏節気の移動を行うことで避けた例である。これは前者は朔旦冬至、後者は閏8月との関係で大規模な操作が発生するのを防止するために行われたと見られている。正和5年(1316年)から応永2年(1395年)に行われた4回は閏月の移動と進朔の中止によって避けた例であった。ただし、明応2年(1495年)以後は大の月が4回続いても改暦は行われなくなった。

なお、日本の歴史上(儀鳳暦が正式採用されたとされる持統天皇6年(692年)より太陽暦導入までの1181年間)1年間にわたって大小が交互に訪れた年は仁和4年(888年)の1例しか確認されておらず、太陰太陽暦の大小交互の月は理想論に近く、実際は数か月大の月あるいは小の月が連続する例は珍しくなかったのである。
閏8月を巡る「改暦」

これは章首の後に来る最初の「閏8月」を発生させてはならないというものであるが、その場合に替わりに7月に閏月が設置されることとなり、これを退閏(たいじゅん)と称した。その由来については暦道による秘伝とされ、中国由来説もあるものの理由は不詳である。

大治4年(1129年)に初めてこれを理由に改暦が行われた際に宿曜師・隆算や算博士三善為康らがこれを激しく難じたのに対して、当時の暦博士は「所伝之秘説口伝也」としか応えなかったとされている(『中右記』同年6月2日6月20日)条、『長秋記』にも同様の記述あり)。内田正男の計算によれば、この年の暦はこの年は閏月が発生して1年が13か月になる年であるが、計算上では本来は9番目の月に入る段階で小余が6547となり進朔限6300を突破するために進朔が発生するために9番目の月の到来が本来の日よりも1日分後ろにずらされるため、8番目の月の晦日(最後日)と中気である秋分が重なるためにそのまま8月となり、その翌日より始まる9番目の月は中気を含まないため閏月となり、9番目であっても閏8月として開始される暦が作られなければならないのに、進朔のし忘れにより実際の頒暦では9番目の月の到来が1日前倒しされて8番目の月が中気を含まない月とされて閏7月となり、中気である秋分が朔日(1日目)となった9番目の月が替わりに8月となってしまっている。そのため、内田はこの進朔の不作為によって生じた誤った閏月の配置の事実をごまかすために暦博士はこうした主張をしたと推定している。なお、この時には本来8番目の月(8月)は大の月、9番目の月(閏8月)は小の月の予定であったが、この改暦によって8番目の月(閏7月)は小の月、9番目の月(8月)は大の月とする辻褄合わせが行われている。

以後、これが由緒ある先例であるとして信じられるようになり、前述の建仁2年を含めて応永2年までの7回、閏8月を閏7月にする改暦がなされている。もっとも、この期間にも閏8月のまま修正が行われなかった年も存在しており、応永年間より300年が経過した江戸時代前期にはこうした理由による修正の事実そのものが忘れ去られていた(貞享暦では進朔の規定そのものが廃止されている)。そのため、日本で最初の長暦を作成した渋川の『日本長暦』もこの事実に気付かずに修正が行われた7回全てを閏8月としており、中根元圭の『皇和通暦』ではこの事実が確認されたために、閏8月を避けたものに修正された後の暦を掲げている。


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