改易の理由としては、世嗣断絶(無嗣断絶)と幕法違反によるものが多かった[14]。幕府が、初め末期養子[注釈 4]を禁じて許さなかったことと、外様大名に厳しく目を光らせていたからである。武家諸法度制定(1615、1635年)前後の幕法違反については、福島正則[注釈 5]や里見忠義が城の無断修築を咎められて改易された件がよく知られる。3代将軍家光の時代には、旧豊臣系の加藤氏・堀尾氏・蒲生氏・京極氏をはじめとする外様大名26家と一門・譜代大名17家が改易された[24]。初期3代の恐怖の処置により、幕府直轄領は拡大して譜代大名の適正な配置が現出したので、譜代大名は絶えず移封の下命を心配しなければならなかったものの、外様大名は骨抜きにされ、幕府に絶対服従の態度をとるようになったのである[25]。
しかし4代将軍家綱の時代に入り、幕府の政治方針に大きな変化が現れた。すなわち、前3代の強圧的な大名整理がすでに十分に奏功して幕府に敵対しようとする大名勢力は一掃されたので、これ以上諸大名を圧迫する恐怖政策は、平和維持を目的とする文治政治の展開には却って弊害があると考えるに至ったのである[26]。改易による藩の取潰しは必然的に多くの浪人を発生させるが、慶安4年の由比正雪による慶安の変(由比正雪の乱)と翌年の別木庄左衛門(戸次庄左衛門)の承応の変は、生活に追い詰められた浪人が幕府の治安政策の上で大きな障害となり得ることを明らかにした。すでに骨抜きにされ、幕府に対する敵対意識をほとんど失っている大名の戦国的な行動を心配するよりも、むしろ彼らを改易して浪人を作り出す方がより重大な危険を孕んでいたのである。幕府としては治安問題の関心が大名対策から浪人対策へと移っていたので、もはやこれ以上大名への圧迫を続けることは全く得策ではなかった[26]。幕府はこれまでの大名敵視政策を改め、その先達として末期養子の禁令を緩めて、50歳以下の者に限り末期養子を取ることを認め、後年には17歳以上の者とさらに緩和した[22]。元禄5年(1692年)、郡上藩藩主の遠藤常久が死去して、本来であれば無嗣断絶で改易となるところであったが、家綱の側室(瑞春院)の親族(後の遠藤胤親)が家督を継ぐことで改易を免れた例がある[27]。
5代将軍綱吉の時代になると改易は再び増加したが[21]、対象は一門や譜代大名に移っており、一門・親藩の政治干渉を防ぎ、政治安定の実現に主眼があって[28]、綱吉の時代に改易された45件のうち28件が一門・譜代の大名であった[21]。6代将軍家宣以降になると改易は極端に減少し、8代将軍吉宗時代においては「最早改易策による大名取潰しはおこなわれない段階に」達して[21]、無嗣断絶でも末期養子と減知に留める寛大な処置が取られることが多くなった。また、初期の大久保忠隣や本多正純、中期以後の松平乗邑、田沼意次、林忠英、水野忠邦のように、幕府内部の権力闘争に敗れたかそれに連座して、改易された幕臣の大名や旗本も多くいたが、後期の改易は藩での失政や幕府政治の権力争いに関係するものばかりだった。
一方で、幕府が大名を敵視しなくなっても、大名本人が問題となって改易となることがあった。全体を通じて、大名の不行跡や刃傷沙汰、乱心(発狂)といった、広い意味での公序良俗・秩序違反の咎で改易とされた事例が思いのほか多く、赤穂事件の浅野長矩などのように大名同士が事件を起こした張本人であるという事例も少なくなかった。喧嘩両成敗は幕府の法ではなかったにもかかわらず、吉良義央のような幾つかの例外を除いて、刃傷沙汰では被害者も加害者と同様に改易の対象として罰せられた。御家騒動などで家中が揉めて幕府に裁定を委ねる事例があるが、どちらか一方の意見が汲み取られることはむしろ稀で、両派に罰が下されることが通常であり、減知は免れずに家中不行届を理由に改易となることもあった。藩主の失政や苛政により一揆や騒動が起きたという事例が多数あり、大名本人がその地位に就く適性を欠く場合には、不適格者の処分としての改易はむしろやむを得ない処置であったと言える。
改易の処分を受けた後、大名はそれぞれ蟄居や配流といった個別の刑罰に服した。失政や刃傷沙汰を起こした者は切腹となることが多く、島原の乱の原因を作った松倉勝家は切腹ではなく打首となった。ただし処罰後に許され、大名本人または子孫や一族の者が小大名や旗本に取り立てられ家名が存続することは少なくなかった。御家大事の論理を幕府は秩序の維持に有益と考えて重視したからである。譜代・親藩の中には、改易・蟄居処分のあとに許されて、その子孫が旧知とほぼ同じ待遇で復帰した例がある。