国際法上で必要な国家の交戦開始の意思表示がなされなかったため、戦争と呼ばれなかった[6]。日本政府は当初は北支事変(ほくしじへん)と呼称し、その後、支那事変となった[7]。陸軍省軍事課長田中新一大佐は、8月14日の閣議で「北支事変は日華事変と改称すべきだ。相手が拡大主義だから我が不拡大は成立たない」と言った意見が出ていたと回想している[8][9]。
1945年12月8日から17日にわたって連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)に指示されて新聞各紙に掲載された「太平洋戦争史」では、「支那事変」が使用されたが、連載をまとめ1946年4月に刊行された連合軍総司令部民間情報教育局提供・中屋健弌訳『太平洋戦争史?奉天事件より無条件降伏まで』(高山書院、昭和21年4月)では「日支事変」とされた[10]。なお、GHQ/SCAPは、『文藝春秋』1946年11月号に掲載された青野季吉の「中堅作家論ノート」における「支那事変」と表記について、「支那事変は日華事変と書かれるべきである」と命令した[11]。
1946年6月、中華民国の抗議を受けて「支那」の文字の使用を避けるべきとする「中華民国の呼称に関する件」が外務省総務局長名で出され、次官通達「支那の呼称を避けることに関する件」が各省次官などに伝達された[11]。同文書では、「支那」に代わる用例として「中華民国」、「中国」、「日華」などが挙げられたが、歴史的地理的または学術的の叙述の場合は「東支那海」や「日支事変」などの使用はやむを得ないとされた[11]。同通達を受け、7月3日に文部大臣官房文書課長名の「『支那』の呼称を避けることについて」と題する「通知」が各大学・高等専門学校長宛に出されて以降、「支那」の語句が避けられ、「支那事変」の使用は減少し、「日華事変」が使用され始めた[11]。
高等学校学習指導要領は昭和26年度改訂から、中学校学習指導要領社会科編は昭和30年度改訂から「日華事変」が使用され、昭和32年度から全社の中学校歴史教科書で「日華事変」となった[11]。昭和50年度から教科書に「日中戦争」が登場したが、学習指導要領は「日華事変」のままであった[11]。「日中戦争」の呼称の使用に比例して、日本の中国に対する「侵略」を強調する傾向が強まったように、呼称には歴史認識も大きな影響を及ぼしていた。日中国交正常化を受け1970年代に「日中戦争」が普及し、「日華事変」は使用されなくなっていった[11]。
脚注 [脚注の使い方]^ 臼井勝美「「支那事変」考」駒澤大学大学院史学会『駒澤大学 史学論集』第34号 (2004.4)、ISSN 0286-5653、1頁。
^ 北 (1994)、20頁
^ 臼井勝美『新版 日中戦争〈中公新書 1532〉』中央公論新社、2000年4月25日発行、ISBN 4-12-101532-0、68頁。
^ 昭和16年12月12日閣議決定 今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期等ニ付テ
^ 北 (1994)、8頁。
^ 北 (1994)、4頁。
^ 昭和12年9月2日閣議決定、事変呼称ニ関スル件
表
話
編
歴
太平洋戦争/大東亜戦争
開戦前
ロンドン海軍軍縮会議
オレンジ計画
排日移民法
満洲事変
第一次上海事変
華北分離工作
防共協定
日中戦争
北支事変
第二次上海事変
ノモンハン事件
日独伊三国同盟
日ソ中立条約
東亜新秩序
日米交渉
仏印進駐
関東軍特種演習
ABCD包囲網
日蘭会商