慶長14年(1609年)、前フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行(サン・フランシスコ号)がヌエバ・エスパーニャ副王領(現在のメキシコ)への帰途台風に遭い、上総国岩和田村(現在の千葉県御宿町)の海岸で座礁・難破した。地元民に救助された一行に、徳川家康がウィリアム・アダムスの建造したガレオン船サン・ブエナ・ベントゥーラを贈りヌエバ・エスパーニャ副王領へ送還した。この事をきっかけに、日本とエスパーニャとの交流が始まった。
こうしたエスパーニャとの交流ができたことにより、常長の主君である伊達政宗はヨーロッパに遣欧使節を送ることを決定した。遣欧使節はエスパーニャ人のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロ (Luis Sotelo) を正使とし、常長は副使となり、180人から組織され、エスパーニャを経由してローマに赴くことになった。遣欧の目的は通商交渉とされているが、エスパーニャとの軍事同盟によって伊達政宗が倒幕を行おうとした説も存在している[5]。
慶長17年(1612年)、常長は第一回目の使節としてサン・セバスチャン号でソテロとともに浦賀より出航するも、暴風に遭い座礁し遭難。再度仙台へ戻り、現在の石巻市雄勝町で建造したガレオン船サン・ファン・バウティスタ号で慶長18年9月15日(1613年10月28日)に月ノ浦(現・石巻市)を出帆した。なお、短期間に洋式船を建造していることから、最初に座礁したサン・セバスチャン号を譲り受けて修理し、サン・ファン・バウティスタ号として出航させたのではないか、とする説もある[6]。
出航後、常長らの一行はエスパーニャ(現スペイン)のヌエバ・エスパーニャ副王領であり、北アメリカ大陸の太平洋岸にあるアカプルコ(メキシコ・ゲレーロ州)へ向かった。アカプルコにおいて北アメリカ大陸に上陸を果たすと陸路で大西洋岸のベラクルス(メキシコ・ベラクルス州)に移動、ベラクルスから大西洋を渡り、サンルーカル・デ・バラメーダ(スペイン・アンダルシア州セビリア県)に到着、小型帆船に乗り換えてグアダルキビール川を遡上し、コリア・デル・リオに上陸した[7]。慶長20年1月2日(1615年1月30日)にはエスパーニャ国王フェリペ3世に謁見。マドリードで国王列席の下、洗礼を受けた[2]。その後、イベリア半島から陸路でローマに至り、元和元年9月12日(1615年11月3日)にはローマ教皇パウルス5世に謁見した。ローマでは市議会から市民権と貴族の位を認めた「ローマ市公民権証書」を与えられた[2]。その後もマドリードに戻ってフェリペ3世との交渉を続けている。
しかし、エスパーニャやローマまで訪れた常長であったが、この時既に日本国内ではキリスト教の弾圧が始まっており、それが欧州に伝わりつつあった[2]こともあって通商交渉は成功することはなかった。常長は数年間のヨーロッパ滞在の後、元和6年8月24日(1620年9月20日)に帰国した。
こうして遥々ローマまで往復した常長であったが、その交渉は成功せず、そればかりか帰国時には日本では既に禁教令が出されていた。そして、2年後に失意のうちに死去した。棄教したとも言われたが、ソテロが1624年に九州で書いた手紙では、常長は「敬虔のうちに死去」して宣教師の保護を遺言したと記している[2]。
常長の墓といわれるものは宮城県内に3ヵ所 ( 仙台市青葉区北山にある光明寺( 北山五山の1つ )、川崎町支倉地区の円福寺、そして大郷町の西光寺 ) 存在する。
その後の支倉家は嫡男常頼が後を継いだが、寛永17年(1640年)、家臣がキリシタンであったことの責任を問われて処刑され断絶した。しかし寛文8年(1668年)、常頼の子の常信の代にて許され家名を再興した。その後、第10代当主の代まで宮城県黒川郡大郷町に[8]、第11代から現在の第13代支倉常隆、そして第14代支倉正隆に至るまで、宮城県仙台市に居を構え続けている。また、支倉常隆は日本国内ならびに世界各国を周って先祖の常長の功績を伝え、現在はその子正隆が引き継いでいる。大正13年(1924年)、正五位を追贈された[9]。
常長らが持ち帰った『慶長遣欧使節関係資料』は仙台市博物館に所蔵されており、平成13年(2001年)に国宝に指定されている。また、2013年にはユネスコの「世界の記憶」(記憶遺産)の一つに選定された。その中には常長の肖像画があり、日本人を描いた油絵としては最古のものとされる。この絵は、上記の支倉家断絶時、聖母マリアの絵などとともに仙台藩が押収したものである[2]。また、常長自身が記録した訪欧中の日記が文化9年(1812年)まで残存していたが、現在は散逸しており幻の史料となっている。なお、資料の中に「支倉」を FAXICVRA [注 2]とつづった部分があり、当時ハ行を唇音で発音(ハ行転呼を参照)していた証拠となっている。 この人物は一般に「支倉常長」と称されるが、同時代に彼の諱を「常長」と記述した例はない。自筆史料の署名も「六右衛門」「六右衛門長経」とされており、自身が「常長」を称したことはなかったと推定される。 「常長」という諱が登場するのは、彼の死後、支倉家が一時断絶して再興した後に編纂された支倉家の系図である。後世の子孫が、先祖がキリシタンであったことを隠すため、「長経」の使用を忌避し、「常長」と偽って記録した可能性がある[10][注 3]。 支倉家の家紋は「右卍」とされる。『仙台古文記 しかし、支倉常長の家紋としての意匠は、「逆卍に違い矢斜め十字」が有名であり、宮城県の時代行事の装束にはこれが使われている。ギャラリーにあるようにヨーロッパの記録にも残っており、少なくとも常長の時点で家紋であったと考えてもよいであろう。2013年の遣欧使節団400年記念行事において支倉家がスペインに招かれたが、その際には支倉常隆が裃に陣笠姿で諸行事に参加しており、肩衣と陣笠には右卍の家紋が使われている姿が残っている。 パウルス5世に拝謁した際、常長が鼻をかんだ懐紙がバチカンの人類博物館に展示されていたことがある。当時の西洋では手鼻かハンカチを使って鼻をかみ、懐紙を用いて鼻をかむという習慣がなく、大変珍しがられたためである。
諱「常長」について
家紋について
その他