擬洋風建築
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林忠恕の木造官庁建築

横浜由来の洋風建築を持ち出した大工には、清水喜助のほかに林忠恕がいた。鍛冶、木挽きを経て大工に転身した林忠恕は、横浜でブリジェンス、ウィットフィールド、ドーソンなどの西洋人技師のもとで働き、イギリス仮公使館の工事にも参加した。その後、1871年末に発足した工部省に雇われ、官庁建築の営繕を担当した。1873年にはお雇い外国人のトーマス・ウォートルスが率いる大蔵省営繕寮に移り、日本人技術者の筆頭となる。ウォートルスが煉瓦や石の本格的な建築を手がける一方、林忠恕は大蔵省(1874年)、内務省(1874年)、神戸東税関役所(1873年)、駅逓寮(1874年)、大審院(1877年)といった木造官庁舎を手がけている[11]

大蔵省

内務省

駅逓寮

大審院

建物の内容を見ると、ブリジェンスや清水喜助のような木骨石造ではなく、普通の壁には漆喰を塗りアーチやコーナーストーンにのみ石を貼る木骨石造の省略形となっている。建物の姿も、日本屋根が乗ったり塔が付いたりせず単調な四角形の内に納まり、唯一ペディメントと列柱のついた大ぶりな車寄せが張り出している。こうした構成にはパラディアニズムを好んだウォートルスの影響が見られる。擬洋風の建築表現としてはおとなしいが、中央官庁の建築ということで地方への影響力は強く、車寄せだけを強調したパラディアニズム崩しの構成は地方官庁の定型として広まっていった[11]
木造漆喰の小学校

学制発布を境に、小学校だけでなく郡役所、県庁、警察署といった地方の公共建築も洋風化を求められるようになる。各地の棟梁は東京、横浜、長崎などで擬洋風やベランダコロニアルの洋式建築を見聞し、国許に小学校や役所を建てた。木骨石造系の擬洋風から一歩進んだこれら木造漆喰仕上げの擬洋風は、中部地方の長野、山梨、静岡の三県で最もよく盛り上がった[12]

中でも特に盛り上がったのは山梨で、県令藤村紫朗のもと藤村式建築と呼ばれる一連の擬洋風建築が建てられた[12]。藤村紫朗は山梨赴任前に、小学校発祥の地である京都を経て、大阪で擬洋風の小学校建設を推進した人物で、琢美学校(1874年)と梁木学校(1874年)を皮切りに多数の擬洋風建築を建設している[12]。立方体の主体部に太鼓楼を載せた形式を持つ小学校は他の地域ではあまり見られないが、琢美学校とほぼ同時期に大阪の東大組第十九区小学校(1973年)や滋賀県長浜の開知学校(1874年)が建てられていることから、この形式の発信源は大阪にあるとみられる[13]

琢美学校

梁木学校

東大組第十九区小学校

開知学校

山梨に続いて、静岡には見付学校(1875年)や坊中学校(1875年)、西之島学校(1875年)が、長野には中込学校(1875年)や開智学校(1876年)が建てられた。開智学校は設計に当たって東京や山梨の擬洋風が参考にされており、後を追って造られた諏訪盆地の高島学校(1879年)、山一つこえた格致学校(1878年)、隣村の山辺学校(1885年)などに影響を与えている。このように先進地に建てられた小学校は周囲の地域に影響を与え、木造漆喰系の擬洋風は全国に広まった[12]

見付学校

坊中学校

西之島学校

中込学校

開智学校

高島学校

山辺学校

下見板の擬洋風

漆喰系の擬洋風がピークを迎える頃、下見板にペンキを塗って仕上げる擬洋風が登場し、擬洋風の晩期に広まった。下見板張りの擬洋風は山形県東京府から始まるが、質と量から影響力は山形の方が大きいと考えられる[14]

山形では1876年(明治9年)の朝暘学校を皮切りに、県庁舎1877年〈明治10年〉)、師範学校1878年〈明治11年〉)、済生館1879年〈明治12年〉)といった大作や、郡部に西田川郡役所(1881年〈明治14年〉)、鶴岡警察署1884年〈明治17年〉[15])などが建てられた。

建設ラッシュは1876年(明治9年)から1881年(明治14年)まで5年間続き、造られた建物は主なものだけでも28件に及ぶ。札幌鶴岡の間で技術交流があった山形県では、開拓使から下見板張りのアメリカ風建築が伝わり、こうした擬洋風建築が建てられた。建設を主導した県令三島通庸は、転任先においても福島県伊達郡役所1883年〈明治16年〉)や南会津郡役所1885年〈明治18年〉)、栃木県庁舎など、下見板張りの擬洋風建築を建て続けた[14]

朝暘学校

山形県庁舎

山形師範学校

済生館

西田川郡役所

鶴岡警察署

伊達郡役所

南会津郡役所

栃木県庁舎

東京市では1874年(明治7年)竣工の工部省が下見板張り擬洋風の第一号だが、しばらくその後続はなく、1877年(明治10年)になってから学習院駒場農学校、一ツ橋講堂、1877年(明治10年)に元老院などが建てられた。これらは大蔵省営繕寮によるもので、木骨石造系を建てていた中央官庁の技術陣は明治10年に入ると下見板系に転じている[14]

工部省

学習院

駒場農学校

元老院

伝統の木造技法で容易く作ることができ、日本の風雪にも強い下見板の擬洋風は明治10年代を通じて東北三県と東京に根付いた後、明治20年代に入って日本列島全域に広まったと考えられている。写真館や医院など全国に残る下見板の簡便な西洋館は、この下見板の擬洋風の末裔にあたる[14]
擬洋風の終焉

オリジナリティの高い建築が作られていた擬洋風建築であるが、明治10年代後半になるとどこか似通った形をとるようになってくる。塔屋が設けられなくなり、寄棟造二階建の棟の中央に三角ペディメントを戴く二層車寄せを設ける形式が一般化していく。本庄警察署(1883年)、氷上郡各町村組合立高等小学校(1884年)、宇和島警察署(1884年)など、地域的な偏りがなく同時期にこうした形式の建築が建てられた。情報不足ゆえに多様性を生んでいた擬洋風のデザインは、時間の経過と共に情報が増加し定型化されていく[16]

本庄警察署


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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