肯定的側面もあれば否定的側面もあり、その評価は難しい。否定的側面としては、「剣術の見世物化」として剣の道を低く見るという批判や、客寄せのための派手な動作や異様な掛声などが、その後の剣道に悪影響を及ぼしたとする見方がある。一方、肯定的側面としては、難しい時代において、剣術の命脈を保ったものと評価されている。
高野佐三郎は次のように評している。榊原(鍵吉)など一口に悪く云うのは間違っている。彼は非常に剣道の衰微したのを憂えていた。明治9年廃刀令が出てから剣道は非常に衰微した。このときに始めて撃剣興行を始めたのです[注釈 2]。これは一概に悪口は言えないので、こうでもしなければ、或いは剣道が滅びてしまったかもしれません。榊原のやり方は実にうまいもので、人々の感興をそそったり、好奇心をひくような実にうまいやり方をやったものです。形をつかう所などは、真剣でもやりました。その後、当時の三島(通庸)警視総監が剣道の出来るものは、直ちに巡査に無条件で採用した[2]。
また、撃剣興行の悪影響を受けているとされる「引き上げ」について、済寧館における渡辺昇と海江田信義との異種試合を例として次のように評している。有名な維新の志士渡辺昇子爵と海江田信義子爵との、4尺5寸の長竹刀に薙刀の対戦でありました。渡辺子爵は大上段に振りかぶり、薙刀を持った海江田子爵の籠手に、物の見事に打ちを入れて、立派に極まりました。そこで、当時の流行であった興行剣術の名残りとでも申しますか、片手を離して左手に竹刀を高くかかげ「籠手ー」と云って引き上げと云うのを行いました。ところが一方の海江田子爵はと見ると、満面朱をそそぎ、後を向いて引き上げて行く渡辺子爵の後を追うて行きます。そして、近付くや、矢庭に薙刀を振って、「ビンター」と叫ぶと同時に、渡辺子爵の横面をいやと云うほどたたきました。渡辺子爵はこの不意打ちには一驚を喫したのでしょう。「コラ、無礼するな」と大声一喝を酬いました。海江田子爵は、「何が無礼か。無礼はおはんじゃ。敵を斬って後を向くと云う法があるか。この海江田は腕の一本位では決して死にはせぬぞ」といいました。当時の海江田子爵は、沖縄県知事をやめて帰ったばかりのころであったから、あきれ返った渡辺子爵は、「さてさて、知事さんとはよいもんじゃ。わがまま出来てよいもんじゃ」といいました。これらは他の人たちがやったのなら困りますが、この辺の方々は、無理がなく、まことに余裕と洒落が横溢していて、いまでも当時が懐かしく思い出されます[2]。
小説
津本陽『明治撃剣会』
脚注
注釈^ 日付は4月6日、4月11日、4月15日、4月26日と4説ある。
^ 正しくは明治6年である。
出典^ 中村民雄・渡辺一郎・中林信二「文明開化と武道 -撃剣興行を中心として-」
^ a b 堂本昭彦『高野佐三郎剣道遺稿集』、スキージャーナル
参考文献
中林信二「撃剣興行」(『日本史大事典 2』(平凡社、1993年) ISBN 978-4-582-13102-4)
石垣安造『撃剱会始末』、島津書房
中村民雄・渡辺一郎・中林信二「文明開化と武道 -撃剣興行を中心として-」(『武道学研究』第8巻第2号 日本武道学会 1975年)
関連項目
天覧兜割り
撓競技
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