摂関政治
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しかし、平城上皇の変以来、退位した太上天皇は内裏には立ち入らない原則があり[6]、治天の君は内裏内部のことについては摂関を自らの代理にして自らの意思を反映させる方法を取らざるを得なかった[7]。摂関政治の終焉後も摂政・関白が必要とされた理由の1つと考えられる。

古典的な理解での摂関政治はまさに院政によって終焉した。古典的理解による摂関政治は母系的繋がりを持つ天皇、公卿による政治の独占で、母系の要となる者が摂政・関白となるという理解である。しかし、院政の出現により、貴族の家格というものが固定される。古典的理解での摂関政治では、幼帝の外祖父とその血縁者のみが摂政、後に関白や公卿の権利を持っていたが、院政の成立後には藤原北家頼通流にのみ摂政・関白職が世襲されることが公認される。皮肉にも摂関政治を終焉に導いた院政が「摂関家」という概念を生み出した。そして、実体としての摂関政治は、後三条・白河期に終焉を迎えていたと見るべきであろう。
その後の摂関

1156年保元の乱藤氏長者藤原頼長が謀反人として敗死・没官となり、乱後は新興の天皇側近が政治を主導し、上皇不在の際にも関白藤原忠通は主導権を回復できなかった。1159年平治の乱とその後の政変で実力者の多くが死亡・失脚したことで摂関家の発言力がいくぶん回復し、1161年後白河上皇も一時失権した後は天皇と摂関家の合議により朝政が進められたが、大殿忠通に続き摂関近衛基実1166年に病死すると院政体制が復権した。1184年木曽義仲が武力で院政を停止し12歳の松殿師家を摂政に就け朝政を主宰させたが、義仲敗死を受けて2か月で院政に戻る。

若い後鳥羽天皇を残して治天の後白河が1192年に崩御し上皇不在となると、関白九条兼実が朝政を主導する。しかし1196年源通親らによる建久七年の政変で兼実は失脚し、近衛基通が関白に復帰する。政変後の朝政を主導したのは関白でなく通親で、通親外孫の土御門天皇を即位させるなどしたが、1202年の通親死去後は後鳥羽による院政が主導権を取り戻す。

承久の乱を経た鎌倉幕府影響下の朝廷で、摂家将軍藤原頼経の父九条道家四条天皇の外祖父として太閤となり、ついで後堀河上皇崩御後に京に上皇がおらず治天が欠けている中で摂政となり、摂関政治の再来とも思われた。しかし四条天皇の夭折を境に九条家は朝廷内で浮き上がり、将軍頼経と北条得宗の対立により道家・頼経父子とも失脚した。道家失脚後、摂関の人事権は院政に戻らず、幕府に奪われる。この後、摂関の交代はもはや政治的事件としての重要性を失った[8]。また、閑院流国母を多数輩出する一方で摂関家からの入内自体が少なくなり、以降確実なところでは(嘉喜門院参照)、1611年近衛前子まで摂関家出身の国母は存在しなかった。

1272年後嵯峨法皇が崩御し亀山天皇が治天となった際、院評定の形式をそのまま踏襲して内裏で議定が行われた。1290年に治天の後深草上皇が政務から引退し伏見天皇の親政が行われた際も同様である[9]。もはや院が欠けても天皇が院同様の治天として親裁する慣行が成立し、内覧権限は形式的なものとなった。

その後の摂関家は、荘園領主たる権門の一角として一定の勢力を保持した。南北朝時代には正平一統破棄後の北朝再建に際し、二条良基が元関白として正統性寄与のため働いたのだ。

近世に入って豊臣秀吉が自ら関白に就任したことは摂関政治を復興させたと言えなくもない。しかし秀吉は摂関を征夷大将軍に代わる「武家の棟梁」として位置付けようとしたものであり、旧来の摂関政治の復活とは軌を一にするものではなかった。

江戸時代には江戸幕府の支援で摂関家の勢力が再興された。しかし幕府の介入によって摂関家当主による「合議制」による意思決定が義務付けられた事によって、寧ろ逆に摂関政治は否定される事になった。もっとも摂関家当主の合議が朝廷の最高意志決定機関となった事は、天皇の権威を弱める事でもあり、ある意味、摂関家の権威を高める事でもあった。また禁中並公家諸法度において、摂関の席次を親王よりも上位とした事も、摂関家の権威を高め、皇室の権威を下げる事につながった。近衛基煕のように、将軍や幕閣から政治・有職などの諮問を受けた摂関家の当主もいたが、これは近衛が朝廷内において親幕府派として振る舞った事による。もちろん摂関家が常に親幕府であった訳でなく、実際にも霊元上皇が親幕府に転じると、逆に近衛は幕府とは距離をとる方針を打ち出した事もある。ともあれ幕府としては、皇室と摂関家を分断する事によって、朝廷統制に利用してきた。

幕末の王政復古により、摂政・関白は征夷大将軍などと共に廃止され、関白および人臣摂政は以後置かれていない。その後、大日本帝国憲法および旧皇室典範で皇族摂政の制度が改めて定められ、戦後の日本国憲法および皇室典範でも象徴天皇の国事行為代行者としての摂政の規定がある。
摂関政治の背景とその意義

律令では、太政官が奏上する政策案や人事案を天皇が裁可する、という政策決定方式が採られていた。すなわち、天皇に権力が集中するよう規定されていたのであるが、摂政・関白の登場は、摂関家が天皇の統治権を請け負い始めたことを意味する。

摂関政治が確立し始めた9世紀後期から10世紀初頭にかけては、が衰えて混乱する大陸に対しては従来の渡海制を維持することで混乱の波及を抑制することができ、奥羽でも蝦夷征討がほぼ完了するなど、国防・外交の懸案がなくなり、国政も安定期に入っていた。そのため、積極的な政策展開よりも行事や儀式の先例通りの遂行や人事決定が政治の中で大きなウェイトを占めることとなった。また、公的な軍事力が低下する反面、摂関家は、武力に秀でた清和源氏を家来とするなど、軍事力の分散化が見られ出した。また、9世紀中期の仁明文徳両天皇は病弱で特に後者の時期には朝廷の会議にもほとんど出席できず、結果的には天皇不在のままで政務が遂行される「壮大な実験」が行われた。その経験が前例のない幼帝の誕生を可能にし、摂関政治や太政官における陣定など、天皇が直接関与しない朝廷運営の成立につながったとする見方もある[10]

すなわち、国政の安定に伴い政治運営がルーティーン化していき、天皇の大権を臣下へ委譲することが可能となった。その中で、うまく時流に乗った藤原北家が大権の委譲を受けることに成功し、その特権を独占するとともに、独自の軍事力を保有するに至った[注釈 3]。摂関家が要職を占めたので、他の貴族は手に職をつけることで生き残りを図った。

上皇も上皇で、律令政治初期の頃から「皇室家父長」として後見を担ってきた。摂関政治ではそれが父系から母系に移り、院政で再び父系に移ったと考えることも出来る。藤原良房の権力掌握開始が家父長的権力を有した嵯峨上皇の崩御に始まり、宇多法皇が家父長として背後にあった醍醐天皇の時代に一時摂関政治が停滞し、久しく絶えていた家父長的な上皇の復活である白河上皇が摂関政治に代わる院政を開始した事は、偶然では決して片付けられないものである。

加えて、当時の貴族社会における婚姻と子供の養育制度にも原因がある。古代日本の婚姻は「妻問婚」で、夫婦は同居せず、妻の居宅に夫が訪ねる形態であった。生まれた子供は妻の家で養育され、当然ながら藤原氏を母にもつ皇子も藤原氏の家で養育され、こうして育った天皇が藤原氏の意向に従うのは当然であった。ところが平安時代中期より制度に変化があり、生まれた子供を夫の家で養育するようになった。当然ながらこうして育った天皇は、藤原氏の意向に唯々諾々と従うはずがなかった。

また、国政の安定を背景に、権力の分散化も顕著となっていき、例えば、地方官の辞令を受けた者から現地の有力者へその地方の統治権が委任されるといった動きも見られた。この動きが、ひいては鎌倉幕府武家政治の成立へつながっていく。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ その前の藤原高藤は危篤となった天皇の外祖父である大納言に対する礼遇であるため、実質は奈良時代末期の藤原魚名以来119年ぶりである。
^ 頼通も就任時は若年の摂政であったが、実際には父親の道長が10年近く後見しているため状況が異なる。
^ ただし、摂政・関白が統治権を掌握したとしても、独裁的な権力を把握していたわけではなく、少なくとも成人の天皇と関白の間では事前に合意形成が図られるのが原則とされていたこと、また北畠親房が「執柄世をおこなわれしかど、宣旨、官符にてこそ天下の事は施行せられし」[11]と書き記しているように、天皇?関白?太政官という組織系統は摂関政治期を通じて維持されており、摂政・関白が自己の政所で政務を行ったとするいわゆる「政所政治」説は成立が困難である。

出典^ 古瀬奈津子「天皇と除目」古瀬奈津子 編『古代日本の政治と制度-律令制・史料・儀式-』同成社、2021年 ISBN 978-4-88621-862-9 P500-502.
^ a b 美川 pp.73-75


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