摂関政治
[Wikipedia|▼Menu]
道長が摂関の地位に就いたのは、1016年の外孫の後一条天皇が即位して摂政に就任してからの1年程に過ぎず、すぐに息子の藤原頼通に譲っている。

近年の研究においては歴代の天皇の性格や取り巻く状況にもよるが、摂関政治期の天皇は必ずしも天皇の権力は無力ではなく、自ら積極的に政治的役割を果たそうとする天皇が多かったことが判明している。しかし、天皇と公卿や官司の間で文書をやりとりする際には摂関(内覧も含む)が介在させて行うことが多く、特に叙位除目などの人事の関する御前の儀式には摂関が文書の内容を確認する行事が故実として盛り込まれたことにより、摂関の存在がなければ儀式が成立しないことになった。これによって朝廷の人事権を摂関が把握することに成功し、それが摂関の存在を維持することにつながったと言える[1]

この時期、摂関家の経済基盤は人事決定権にあり、摂関に指名された受領が任地で蓄えた財産の一部を摂関家に貢納することで多くが賄われていた[2]。このような受領の多くは家司受領と呼ばれ、四位・五位の官人であるにもかかわらず摂関家の被官であるかのごとき立場であった。かつて史学史上、彼ら家司が運営する摂関家政所が直接国政を支配していたとする政所政治説が唱えられたが、現在では否定されている。
摂関の実権低下と家職化

道長の子頼通は摂関の地位に約50年間就いた。皇親政治期以来、公卿の多くが天皇と近しい縁戚関係を持つ者で固められていたが、長らく摂関家嫡流のみが縁戚関係を独占したことで、公卿の縁戚者比率が低下し、縁戚者の首席としての天皇外戚の力も低下することとなった[3]。その外戚の地位も、頼通が入内させた娘から男児が生まれなかったことで北家嫡流(御堂流)は失うこととなる。

1068年、御堂流を母とする男子皇族が絶えた状況で後冷泉天皇が崩御したことから後三条天皇が即位した。後三条天皇は藤原北家の祖父を持たない約170年ぶりの天皇であり、それを支援したのは同じ摂関家ながらその就任資格から排除された藤原能信(頼通の異母弟)らであった。後三条天皇は能信の養女茂子(閑院流最初の国母)を女御とする程度しか御堂流との繋がりはなかったものの、関白には頼通の同腹弟である教通が就き、外戚と関白の地位が分立することとなった。後三条が皇太子時代に頼通らから圧迫を受けていたこともあり、後三条は関白の献言をあまり取り上げず実質的な親政を行い、天皇の威信と律令の復興を意図する政策を次々と打ち出した。この間、摂関家では頼通と教通が確執を起こして、天皇に対して具体的な対抗手段を取れる状況ではなかった。しかし、皇位は茂子所生の白河天皇に譲っている。

白河天皇は藤原氏を母と妻(中宮)に持っていたため、後三条母の陽明門院(道長外孫ではあるが、頼通らと反目していた)ら反藤原氏勢力は、異母弟・実仁親王、更にその弟の輔仁親王(摂関家から冷遇された三条源氏の系譜)に皇位を継がせる意向を持ち、白河天皇もそれを無視できなかった。しかし応徳2年(1085年)に実仁親王は薨去し、ここに至って白河天皇は自分の子に皇位を継がせる事を決意し、8歳の善仁親王(堀河天皇)を皇太子に立て、即日譲位した。政治の実権は堀河天皇の母藤原賢子の養父である摂政の藤原師実(頼通の子)が握り、堀河天皇成人後は藤原師通(師実の子)が関白となり、一時期であるが摂関政治が復活した。

しかし師通は働き盛りの時期に急逝し、その後摂関家では後継者争いが生じ、これに親藤原氏の立場ゆえに藤原氏への影響力を持っていた白河法皇の介入という形で解決がなされてしまう。このため、以後の摂政・関白の任命には上皇(法皇)の意向が反映される慣例ができあがった。しかも後を継いだ藤原忠実はまだ若年で政治的経験に乏しく[注釈 2]、堀河天皇を補佐するに足らず、やむなく天皇は白河法皇に政務の補佐を頼むしかなかった。こうして、いわゆる白河院政が開始された。藤原氏と良好な関係を持っていた白河法皇の施策によって、摂関政治の衰退に拍車がかかってしまうという、何とも皮肉な結末となった。堀河の崩御後、北家傍流である閑院流藤原実季を外祖父とする鳥羽天皇が5歳で即位するが、この際に実季の嫡男である公実が摂政の地位を要求する。白河は、自らの側近(院近臣の原型)の源俊明の献言を容れて前関白の忠実を摂政に指名し[3]、関白のみならず摂政も外戚から切り離されて摂関が家職化した。この判断の背景には摂関の職務を行う上で必要な故実が御堂流にしか伝わっていないこと、御堂流に比べて閑院流の公卿の数が少なく後見としての不安感を抱かれたという現実的判断もあったと考えられる[4]

また、皇位継承者決定も摂関およびそれ以外の人事指名も王家の家長たる上皇(治天の君)が行うこととなり、院への権力集中がより明確、かつ慣例化した。人事については非公式文書の「任人折紙」が院から下され、天皇もしくは摂政は、その指示通りに執行することとなった[5]。人事権が院に移った以上、家司受領からは貢納を怠るものが続出し、摂関家は荘園を集積することで穴埋めを図った[2]。しかし、平城上皇の変以来、退位した太上天皇は内裏には立ち入らない原則があり[6]、治天の君は内裏内部のことについては摂関を自らの代理にして自らの意思を反映させる方法を取らざるを得なかった[7]。摂関政治の終焉後も摂政・関白が必要とされた理由の1つと考えられる。

古典的な理解での摂関政治はまさに院政によって終焉した。古典的理解による摂関政治は母系的繋がりを持つ天皇、公卿による政治の独占で、母系の要となる者が摂政・関白となるという理解である。しかし、院政の出現により、貴族の家格というものが固定される。古典的理解での摂関政治では、幼帝の外祖父とその血縁者のみが摂政、後に関白や公卿の権利を持っていたが、院政の成立後には藤原北家頼通流にのみ摂政・関白職が世襲されることが公認される。皮肉にも摂関政治を終焉に導いた院政が「摂関家」という概念を生み出した。そして、実体としての摂関政治は、後三条・白河期に終焉を迎えていたと見るべきであろう。
その後の摂関

1156年保元の乱藤氏長者藤原頼長が謀反人として敗死・没官となり、乱後は新興の天皇側近が政治を主導し、上皇不在の際にも関白藤原忠通は主導権を回復できなかった。1159年平治の乱とその後の政変で実力者の多くが死亡・失脚したことで摂関家の発言力がいくぶん回復し、1161年後白河上皇も一時失権した後は天皇と摂関家の合議により朝政が進められたが、大殿忠通に続き摂関近衛基実1166年に病死すると院政体制が復権した。1184年木曽義仲が武力で院政を停止し12歳の松殿師家を摂政に就け朝政を主宰させたが、義仲敗死を受けて2か月で院政に戻る。

若い後鳥羽天皇を残して治天の後白河が1192年に崩御し上皇不在となると、関白九条兼実が朝政を主導する。しかし1196年源通親らによる建久七年の政変で兼実は失脚し、近衛基通が関白に復帰する。政変後の朝政を主導したのは関白でなく通親で、通親外孫の土御門天皇を即位させるなどしたが、1202年の通親死去後は後鳥羽による院政が主導権を取り戻す。

承久の乱を経た鎌倉幕府影響下の朝廷で、摂家将軍藤原頼経の父九条道家四条天皇の外祖父として太閤となり、ついで後堀河上皇崩御後に京に上皇がおらず治天が欠けている中で摂政となり、摂関政治の再来とも思われた。しかし四条天皇の夭折を境に九条家は朝廷内で浮き上がり、将軍頼経と北条得宗の対立により道家・頼経父子とも失脚した。道家失脚後、摂関の人事権は院政に戻らず、幕府に奪われる。この後、摂関の交代はもはや政治的事件としての重要性を失った[8]。また、閑院流国母を多数輩出する一方で摂関家からの入内自体が少なくなり、以降確実なところでは(嘉喜門院参照)、1611年近衛前子まで摂関家出身の国母は存在しなかった。

1272年後嵯峨法皇が崩御し亀山天皇が治天となった際、院評定の形式をそのまま踏襲して内裏で議定が行われた。1290年に治天の後深草上皇が政務から引退し伏見天皇の親政が行われた際も同様である[9]。もはや院が欠けても天皇が院同様の治天として親裁する慣行が成立し、内覧権限は形式的なものとなった。

その後の摂関家は、荘園領主たる権門の一角として一定の勢力を保持した。南北朝時代には正平一統破棄後の北朝再建に際し、二条良基が元関白として正統性寄与のため働いたのだ。

近世に入って豊臣秀吉が自ら関白に就任したことは摂関政治を復興させたと言えなくもない。しかし秀吉は摂関を征夷大将軍に代わる「武家の棟梁」として位置付けようとしたものであり、旧来の摂関政治の復活とは軌を一にするものではなかった。

江戸時代には江戸幕府の支援で摂関家の勢力が再興された。しかし幕府の介入によって摂関家当主による「合議制」による意思決定が義務付けられた事によって、寧ろ逆に摂関政治は否定される事になった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:37 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef