1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法及び現皇室典範でも摂政の制度が規定された。日本国憲法及び皇室典範の規定するところでは、摂政は、天皇の名でその国事行為を行う職であり、国事行為に関する権限は天皇と全く同等である。天皇が成年に達しない時[1]、重患あるいは重大な事故[注釈 2]といった故障によって国事行為を執り行うことができないと皇室会議で判断された時[2]に設置される。
摂政に類似した概念として、国事行為臨時代行(国事行為の臨時代行に関する法律に基づく)が挙げられる。これは、天皇が疾患又は事故(一時的な入院、外遊など)の際に、内閣の助言と承認に基づいた天皇の委任(国事行為臨時代行への勅書の伝達)によって、故障の無い成年皇族による国事行為の臨時代行が行われるものである。
国事行為臨時代行が天皇の委任によって設置される委任代理機関であるのに対し、摂政は法律上の原因(天皇が成年に達しない時、重患あるいは重大な事故といった故障によって国事行為を行うことができないと皇室会議で判断された時)の発生により当然に設置される法定代理機関である。
日本国憲法及び現・皇室典範の下で、2020年(令和2年)4月1日現在まで摂政が設置された事例は無い。摂政が設置される条件は皇室典範第16条に規定されており、天皇が成年に達した場合や故障が解消され皇室会議の議を経た場合に摂政は廃止される[3]。
日本国憲法第四条第二項
天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。
同第五条
皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。
皇室典範第十六条
天皇が成年に達しないときは、摂政を置く。天皇が、精神もしくは身体の重患又は重大な事故により、国事に関する行為をみずからすることができないときは、皇室会議の議により、摂政を置く。
摂政は、成年に達した皇族が以下の順序で就任する[4]。
皇太子、皇太孫
親王及び王
皇后
皇太后[注釈 3]
太皇太后
内親王及び女王
親王及び王あるいは内親王及び女王の就任順序はそれぞれ皇位継承順位に準拠するが[5]、摂政には親王妃及び王妃を除く女性皇族でも就任可能である[注釈 4]。なお、摂政又は摂政となる順序にあたる者が、重患あるいは重大な事故といった故障があるときは、皇室会議の議決により、上の順序に沿って摂政又は摂政となる順序を変更することが可能である[6]。
2021年(令和3年)12月1日現在
日本における摂政就任資格者[摂政就任順位 1]順位名・身位生年月日性別備考皇位継承
順位
1秋篠宮文仁親王
(皇嗣)1965年(昭和40年)11月30日(58歳)男性皇室典範第17条1項1号
「皇嗣」1
2常陸宮正仁親王1935年(昭和10年)11月28日(88歳)男性皇室典範第17条1項2号
「親王及び王」3
3皇后雅子1963年(昭和38年)12月9日(60歳)女性皇室典範第17条1項3号
「皇后」?
4上皇后美智子1934年(昭和9年)10月20日(89歳)女性皇室典範第17条1項4号
「上皇后」?
5愛子内親王2001年(平成13年)12月1日(22歳)女性皇室典範第17条1項6号
「内親王及び女王」?
6佳子内親王1994年(平成6年)12月29日(29歳)女性?
7彬子女王1981年(昭和56年)12月20日(42歳)女性?
8瑶子女王1983年(昭和58年)10月25日(40歳)女性?
9承子女王1986年(昭和61年)3月8日(38歳)女性?
この他の皇族として、
悠仁親王(2006年(平成18年)9月6日生まれ、現在17歳、皇位継承順位第2位)
がいるが、2024年5月5日現在では成年に達していないため、未だ就任資格はない[摂政就任順位 2][摂政就任順位 3]。
上皇である明仁は皇室典範特例法の規定により、摂政就任資格は有しない。
脚注^ “摂政 - 宮内庁”. 宮内庁. 2019年9月15日閲覧。
^ 皇室典範第17条1項柱書
^ 悠仁親王の成人は、2024年(令和6年)9月6日(2004年/平成16年4月1日以降の生まれのため18歳の誕生日)の予定である。
なお、2022年(令和4年)4月1日に施行された成人年齢引き下げは皇族にも適用される。
摂政が設置されているとき、順位の高い皇族の故障がなくなったとしても、それが皇太子や皇太孫に対する場合を除いては、摂政の任を譲ることはない。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 一般には、日本史上における摂政とは天皇の勅令を受けて天皇に代わって政務を執ることまたその者の職であると定義される。『日本書紀』によると推古天皇の時の厩戸皇子(聖徳太子)が摂政となったとされており、これが日本史上における摂政の最初である。『日本書紀』の中で神功皇后が執政した時期は「神功皇后摂政紀」と呼ばれているが、これは同皇后紀を呼ぶ場合の便宜的な呼称であり、摂政という用語は神功皇后紀の本文中には登場しない。 以降何人かの皇族が摂政を行う。この間、律令制度が導入されたが、"摂政"という官職は設けられなかった。"摂政"という語は、「政務を摂る」という意の普通名詞であり、例えば藤原氏など、朝政を主導した有力な臣下を指して「摂政」という表現をしている事例があった[7]。 人臣で初めて摂政となったのは、藤原良房であるが、この時も、官職ではなく、一種の称号として授与されたものであった。
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