620年(武徳3年)、唐が杜伏威を降伏させると、丹陽郡江寧県に揚州が置かれ、江都郡は?州と改められた。626年(武徳9年)、江寧県の揚州が廃止され、?州が揚州と改称された。742年(天宝元年)、揚州は広陵郡と改称された。758年(乾元元年)、広陵郡は揚州の称にもどされた。揚州は江都・江陽・六合・海陵・高郵・揚子・天長の7県を管轄した[11]。
北宋のとき、揚州は淮南東路に属し、江都県1県を管轄した。1135年(紹興5年)以降、揚州は江都・広陵・泰興の3県を管轄した[12]。
1276年(至元13年)、元により揚州大都督府が立てられたが、江淮等処行中書省が置かれた。1278年(至元15年)、揚州路総管府と改められたが、淮東道宣慰司が置かれた。1282年(至元19年)、淮東道宣慰司は廃止され、揚州路総管府は江淮行省に直属した。1291年(至元28年)、河南江北等処行中書省に移管された。揚州路は直属の江都・泰興の2県と真州に属する揚子・六合の2県と?州に属する清流・全椒・来安の3県と泰州に属する海陵・如皋の2県と通州に属する静海・海門の2県と崇明州、合わせて5州11県を管轄した[13]。1366年、朱元璋により揚州路は揚州府と改められた。
明のとき、揚州府は南直隷に属し、直属の江都・儀真・泰興の3県と高郵州に属する宝応・興化の2県と泰州に属する如皋県と通州に属する海門県、合わせて3州7県を管轄した[14]。
清のとき、揚州府は江蘇省に属し、直属の江都・儀徴・甘泉・東台の4県と高郵州に属する興化・宝応の2県と泰州、合わせて2州6県を管轄した[15]。
1913年、中華民国により揚州府は廃止された。
脚注^ 『漢書』地理志上
^ 『後漢書』郡国志四
^ 『三国志』呉書孫破虜討逆伝
^ 『三国志』呉書呉主伝
^ 『三国志』呉書三嗣主伝
^ 『晋書』地理志下
^ 『宋書』州郡志一
^ 『南斉書』州郡志上
^ 『魏書』地形志二下
^ 『隋書』地理志下
^ 『旧唐書』地理志三
^ 『宋史』地理志四
^ 『元史』地理志二
^ 『明史』地理志一
^ 『清史稿』地理志五
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