江戸時代は嵯峨御所(大覚寺門跡)、明治以後は宮家から与えられた。戦後では、1947年(昭和22年)に2代目豊竹古靱太夫が秩父宮家から山城少掾を、1956年(昭和31年)には4代目吉田文五郎が東久邇家から難波掾[注釈 4]を受領している。
受領するのは義太夫節の太夫がほとんどだが、そのほかの流派の浄瑠璃太夫が受領する例も見られ、 1955年(昭和30年)頃には、清元志寿太夫が高松宮家より志摩大掾を受領している。
脚注
注釈^ 太田近江大掾藤原正次(鋳物師の名跡)など
^ 和菓子商人など。
^ 本来「受領」とは現地に赴任する筆頭国司についての語であり、第三等官である掾に用いるのは適切ではない(官名を帯びさせることは任用(にんよう)と称した)。しかし、幕府主導による武家官位が主流になった江戸時代以降は、朝廷寄りの文書でも混用が見られる。
^ 本来の律令制には、難波掾という国司の三等官はない。摂津目もしくは郡司の難波大領が相当する。
出典^ a b c d 諏訪春雄. “掾”. 世界大百科事典 第2版(コトバンク所収). 平凡社. 2018年5月9日閲覧。
関連項目
受領
大掾氏 - 坂東平氏(常陸平氏)の一族で常陸大掾となったことから称した。
外部リンク
世界大百科事典 第2版『掾』 - コトバンク