職人・芸人の名誉称号としての掾号のうち、もっとも後代まで残存していたのは浄瑠璃太夫に授けられるものである。例えば、竹本義太夫は筑後掾を受領した。
江戸時代中期以後、掾号はもっぱら浄瑠璃太夫の称号とされた[1]。掾号を授けられることは浄瑠璃太夫にとって最高の名誉とされた[1]。称号としての掾は、大掾・掾・少掾の3等級に分かれる[1]。
江戸時代は嵯峨御所(大覚寺門跡)、明治以後は宮家から与えられた。戦後では、1947年(昭和22年)に2代目豊竹古靱太夫が秩父宮家から山城少掾を、1956年(昭和31年)には4代目吉田文五郎が東久邇家から難波掾[注釈 4]を受領している。
受領するのは義太夫節の太夫がほとんどだが、そのほかの流派の浄瑠璃太夫が受領する例も見られ、 1955年(昭和30年)頃には、清元志寿太夫が高松宮家より志摩大掾を受領している。
脚注
注釈^ 太田近江大掾藤原正次(鋳物師の名跡)など
^ 和菓子商人など。
^ 本来「受領」とは現地に赴任する筆頭国司についての語であり、第三等官である掾に用いるのは適切ではない(官名を帯びさせることは任用(にんよう)と称した)。しかし、幕府主導による武家官位が主流になった江戸時代以降は、朝廷寄りの文書でも混用が見られる。
^ 本来の律令制には、難波掾という国司の三等官はない。摂津目もしくは郡司の難波大領が相当する。
出典^ a b c d 諏訪春雄. “掾