排日移民法
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南欧・東欧系移民に不満を抱いた人々の中には、賃金の安い南欧・東欧人が大量に流入することでアメリカ人の賃金が抑えられてしまうことを危惧する労働界や、カトリック教徒やユダヤ教徒が多数派となることでアメリカの文化が変わってしまうことを恐れるWASP、政治的過激派の多い移民が増えることで共産革命がアメリカに起こることを恐れる保守派のほかに、東欧・南欧人はアメリカ人より劣っていると考える優生学者もいた。ここにはマディソン・グラント(英語版)(「偉大な人種の消滅 "The Passing of the Great Race"」などの著書がある)らに影響された、北方人種こそ人類文明のほぼすべてを築いた優れた人種だとするノルディキスト(北方主義者)が含まれる。グラントは合衆国政府にもアドバイザーとして招かれ、合衆国を栄えさせるには、コーカソイドの中でも北方人種である北欧諸国人とドイツ人・イギリス人・アイルランド人については移民制限を弱めて移民を奨励する一方で、中欧・東欧のアルプス人種や地中海周辺の地中海人種については制限を強化し、黒人や黄色人種などの有色人種は一切移民させないことが肝要だと主張した。グラントの主張はカルビン・クーリッジ大統領にも強い影響を与えた。また、1890年代に東欧系移民が増えた原因は、ユダヤ人がロシア帝国のポグロムを逃れたことにあり、以後の東欧系移民もユダヤ人が多いため、反ユダヤ感情も東欧系移民制限論の背景にはあった。

1924年の移民・帰化法改正はこのような背景でまず下院で提起され、そこには排日といった要素はもともと含まれていなかった。仮に1890年基準年次をとった場合日本の移民割当数は年間146人となるはずであった。ところが反東洋系色の強いカリフォルニア州選出下院議員の手によって「帰化不能外国人の移民全面禁止」を定める第13条C項が追加される。「帰化不能外国人種」でありながらこの当時移民を行っていたのは大部分日本人[注釈 1]だったため、この条項が日本人をターゲットにするものであるのは疑いようもなかった。
下院から上院へ

下院で同法案は可決され審議は上院に移った。この時点では、より地域利害に影響されにくい上院では同法案は否決、あるいは大幅に修正されるであろう、その結果日本は理想的には現在の紳士協定方式の維持、悪くとも割当移民方式の対象国となるのではないか、との観測を米連邦政府国務省、在ワシントン日本大使館ともに抱いていた。しかし上院では、日本からの移民流入が米連邦政府のコントロール下になく、内容の曖昧な紳士協定に基づいて日本政府が行う自主規制に依拠している点が外交主権との観点で問題とされた。
埴原書簡問題

米国務長官ヒューズと駐米大使埴原正直は、紳士協定の内容とその運用を上院に対して明らかにすることが、排日的条項阻止のために不可欠であるとの判断で一致した。こうして、埴原がヒューズに書簡を送付、ヒューズがそれに意見書を添付して上院に回付する、という手はずが整った。ところが、埴原の文面中「若しこの特殊条項を含む法律にして成立を見むか、両国間の幸福にして相互に有利なる関係に対し重大なる結果を誘致すべ(し)」(訳文は外務省による)の「重大な結果 (grave consequences)」の箇所が日本政府による対米恫喝(「覆面の威嚇」veiled threat)である、とする批判が排日推進派の議員により上院でなされ、法案には中立的立場をとると考えられていた上院議員まで含めた雪崩現象を呼んだ。「現存の紳士協定を尊重すべし」との再修正案すらも76対2の大差で否決された。クーリッジ大統領は「この法案は特に日本人に対する排斥をはらんでいるものであり、それについて遺憾に思う」という声明を出して否定的な立場をとったが、議会の西海岸選出議員を中心とする排日推進派による圧力に屈する形で拒否権発動を断念、日系人は「帰化不能外国人」の一員として移民・帰化を完全否定されることになった。
成立の背景

この対日排日法の成立について、通俗的には埴原書簡中の「重大な結果」という不注意な文言が上院の雰囲気を逆転させた、と理解されているが、書簡の有無にかかわらず同法成立は時代の必然だった、とする分析も有力である。理由として以下のようなものが挙げられる。

第一次世界大戦後の孤立主義(モンロー主義)的風潮の下で、日米両政府が立法府(米議会)の関与できない協定を結び、米国の主権を侵害することに対する反発は議会内で非常に強く、その流れを読めなかった国務省、在米大使館は楽観的過ぎた。

1924年は連邦議会選挙年であり、上下両院議員とも妥協的な態度はとり難かった。

同年は大統領選挙年にもあたっており、前年にハーディング大統領の急死により副大統領から昇格したクーリッジ大統領は当初、「この法案は特に日本人に対する排斥をはらんでいるものであり、それについて遺憾に思う」という声明を出し、成立には否定的な態度であったが、当時人口増加で重要州となっていたカリフォルニアの意向を無視できなかった。

後年への影響

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出典検索?: "排日移民法" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2022年7月)

この排日移民法によって日本は大きな移民先を失ったため、その代替として満州を重視せざるを得なくなり満州事変につながったとする見方が古くから存在する。昭和天皇が敗戦後、日米開戦の遠因として「加州(カリフォルニア)移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである(中略)かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がつた時に之を抑へることは容易な業ではない(『昭和天皇独白録』より)」と述べているのが好例である [注釈 2]

一方で、同法によって日本人移民が全面禁止されなくとも、上述の紳士協定下で日本からの移民はもともと制限されており(1909年から1923年の日本人移民純増数は合計で8,000人強、年平均で600人弱に過ぎず、しかも1921年からは純減に転じていた)、更に割当制が必至とすれば日本が期待できたのは年間146人に過ぎず、日本が現実に失った利益は小さい、とする見解もある。移民法の成否にかかわらず、日本の対米移民はもともと対中国大陸に比べてはるかに小さな比重を占めていたに過ぎないのだから、同法の成立は後の日本の大陸進出とは関連がない、という説もある。

いずれにせよ、排日移民法は当時の日本人の体面を傷つけ、反米感情を産み、太平洋戦争へと突き進む遠因となったのは疑いないところである。少数とはいえども移民する権利が存在する状態と、完全に移民する権利が奪われて1人も移民できなくなるのとでは、超えられない差が存在しており、新渡戸稲造が同法成立に衝撃を受け、二度と米国の地は踏まないと宣言する(実際は1932年満州事変の国策擁護目的の米国講演を行うこととなり、翌年カナダで客死)など、特にそれまで比較的親米的な感情を持っていた層に与えた影響は大きかった。

東欧諸国の移民枠が削減されたことによりアメリカへのユダヤ人移民は減少した。特に1930年代後半から1940年代、東欧のユダヤ人はナチスの脅威にさらされたが、移民枠の存在のためにアメリカへ逃れることは不可能になり、そのままホロコーストに巻き込まれた。

なおアメリカが連邦レベルで移民・帰化関連法規を改正し、人種的制限が撤廃されるのは1952年、カリフォルニア州で人種による土地所有・賃借の制限が消滅するのは1957年のことである。


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