捕鯨
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後方の島はヤンマイエン島

イベリア半島北岸のビスケー湾に居住するバスク人による捕鯨は、一般的に11世紀頃にノルマン人から伝習されたのが起源であるとされている。文献としては11世紀からバスク人が独占的に捕鯨を行っていたことが分かっており、舌が貴族層の嗜好品として、鯨肉は沿岸住民の食用に饗されていた。13世紀に入ると、バスク人による捕鯨業はさらに発展拡大した。当初は日本での例と同様に、北方へと回遊する鯨を漁獲していたが、漁場はビスケー湾だけでなく大西洋にもおよび、大西洋北部のニューファンドランド島ラブラドル沖における漁場を開発するなど、1560年代にはその最盛期を迎えた。に次ぐバスク第二の輸出品として、鯨油を中心とした各部位はヨーロッパ全域へと販売された。バスク人に対して国王から独占権を与えられる代償として、種々の課税も設けられた。

この頃のヨーロッパにおいて鯨油は、主に灯火用として用いられていた。この他にはヒゲが甲冑帽子コルセットの骨などの装飾品に利用されている。1570年代には50隻余りの捕鯨船が北大西洋で活動し、捕鯨業に関わる人々は4000人にものぼったと推定されている。鯨の群れが発見されない場合の経済的リスクが大きかったため、バスクでは捕鯨船の船主、艤装と販売を担当する商人、船長および乗組員の三者でコストと利益を三等分する仕組みが取られていた。さらに一航海ごとに保険が掛けられており、その保険率は15%程度に定められていた。

この後三十年ほどの間にバスクでの捕鯨は激減してしまう。この原因は鯨の減少、ユグノー戦争八十年戦争の影響の他に、捕鯨業がさらに大規模化したために資本の薄いバスクが不利となったことなどが挙げられる。以後、バスク人は他国の捕鯨船に船員として乗船する形態になっていった。
北大西洋における捕鯨

1590年代にオランダウィレム・バレンツ北東航路の開拓を目指し、北極海への探検航海を繰り返した。彼はこの過程でスピッツベルゲン島を発見し、その付近に大型のホッキョククジラが生息していることを確認した。北東航路開拓そのものはその後イングランドの探検家によって不可能であることが明らかとされたが、理想的な捕鯨場を発見したオランダおよびイングランドの捕鯨船団がスピッツベルゲンへと向かった。イングランド船団を運営するロンドンモスクワ会社ジェームズ1世から特許状を獲得し、バスクの熟練乗組員を用意、大砲20門あまりを装備した私掠船たる捕鯨船を急行させ、公海における漁の自由を訴えるオランダ船から、特許状を掲げて獲物を回収した。オランダ船もバスク人を雇い入れ捕鯨船を武装化し、スピッツベルゲン島周辺におけるイングランドとオランダの争いは武装捕鯨船同士の争いから軍艦の出動にまで発展したが、1618年になり島の分割とその沿岸海域での捕鯨独占権を相互に承認することが定められた。1630年代後半になると、早くもスピッツベルゲン付近のホッキョククジラが枯渇し始め、捕鯨船団はグリーンランド西部のデイディス海峡からノルウェー沖に至る北大西洋をクジラの姿を求めて彷徨った。波の高い外洋を乗り切るため、捕鯨船は大型化、補強され、捕殺したクジラは船の脇で解体されて脂皮が樽詰めされた。1650年頃以降に出船数はピークに達し、毎年250 - 300隻の捕鯨船が出漁して1500 - 2000頭のホッキョククジラを捕獲していたと見られる。

1680年代になると、一時的にオランダの優位が確立した。オランダの捕鯨会社はヨーロッパの鯨油市場を独占し、その利益はアジアとの香辛料取引を上回るまでになった。スピッツベルゲンに設けられた捕鯨基地スミーレンブルクの漁期には、港が鯨で埋め尽くされ、数千人の労働者が昼夜製油作業に従事していた。18世紀後半に捕鯨を再開したイギリスそしてアメリカの捕鯨船も加わり、20世紀に入ると大西洋におけるセミクジラとホッキョククジラはほぼ姿を消した。世界の海上覇権を握っていたイギリスの捕鯨船は太平洋へも進出し、バフィン島付近において新たな捕鯨場を発見することになる。
アメリカ式捕鯨

北米大陸東岸では17世紀中頃、マッコウクジラから良質の鯨油が採れることがわかり、セミクジラと並びこれを捕獲対象とした捕鯨が開始される。北米でも当初は沿岸捕鯨から始まったが、資源の枯渇から18世紀には大型の帆走捕鯨船を本船としたアメリカ式捕鯨へと移行する。この捕鯨は主に油を採取し肉等は殆ど捨てるという商業捕鯨であり、クジラの全ての部分を利用するものではない[注釈 1]。操業海域も太平洋が中心となり、新たな資源を求めて太平洋全域へ活動を拡大していった。北ではベーリング海峡を抜けて北極海にまで進出してホッキョククジラを捕獲し、南ではオーストラリア大陸周辺や南大西洋のサウス・ジョージア諸島まで活動した。日本周辺にも1820年代に到達し、極めて資源豊富な漁場であるとして多数の捕鯨船が集まった。操業海域の拡大にあわせて捕鯨船は排水量300トン以上に大型化し、大型のカッターでクジラを追い込み、銛で捕獲し、船上に据えた炉と釜で皮などを煮て採油し、採油した油は船内で製作した樽に保存し、薪水を出先で補給しながら(このような事情が日米和親条約締結へのアメリカの最初の動機であった)、母港帰港まで最長4年以上の航海を続けるようになった。捕獲用器具としては手投げ式の銛に加え、1840年代に炸薬付の銛を発射するボムランス銃 (Bomb Lance Gun、ボンブランスとも)と呼ばれる捕鯨銃が開発された。捕獲対象種にはコククジラやセミクジラ、ザトウクジラも加わり、鯨油と鯨ひげの需要に応じて捕獲対象種の重点が決定された。19世紀中頃には最盛期を迎え、イギリス船などもあわせ太平洋で操業する捕鯨船の数は500 - 700隻に達し、アメリカ船だけでマッコウクジラとセミクジラ各5千頭、イギリス船などを合わせるとマッコウクジラ7千 - 1万頭を1年に捕獲していた。南大西洋ではアザラシ猟も副業として行い、アフリカから奴隷を運んではアザラシ猟に従事させ、その間に捕鯨をしていた。捕鯨船の母港となったナンタケットニュー・ベッドフォードは大いに繁栄した。ハーマン・メルヴィルは1840年からアメリカ船の乗組員として働いた経験も元に『白鯨』を執筆した。またアーサー・コナン・ドイルは1880年頃にイギリス船の船医として働いていた。


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