産業五穀、麻布、赤玉、良質の貂(“?婁の貂”)を産出。主な食料調達手段は漁業で漁網や釣竿が見つかっている。次いで農耕や養豚、他には狩猟や養犬も行っていた。
晋代の記録では「馬がいるが騎乗はせず、牛[3]と羊がいないが、多くの猪(ブタ)を飼っている」とあり、家畜は彼らの財産であった。また、遺跡からは猪と共に多数の魚や犬の骨が発見されているが、牛や鹿など他の動物の骨はあまり見られない[4]。
言語系統?婁の言語について、中国の史書は「言語は独異」と記しており[5]、当時の東北アジアの中でも独特の言語を使用していたことがわかる。
『魏志』東夷伝・?婁に「處山林之間,常穴居。大家深九梯。以多爲好。(山林のあいだに住んでいて、いつも穴居
している。大きい家は深さがはしご九段ほどある。多いほどよいとされる。)」とある。穴居とはこの場合、地下に穴を掘って住む地下式の住居のことである。『北魏書』巻一〇〇・勿吉伝に「國に大水有り、ひろさ三里餘。速末水と名づく。その地、下濕なり。城を築き、穴居す。屋の形、塚に似たり。口を上に開き、梯を以て出入りす」とあり、勿吉にも、地下式住居があったことがわかる[6]。三上次男は、こうした習俗が、その後同じ住地であったギリヤーク・コリヤークなどにもみられることを例証しており、例えば13世紀から15世紀のギリヤーク(乞列迷)について「平らな土屋に住んでいる。その屋の背に孔を開け、梯をもって出入りし、臥すのに草鋪(舗)をもってしている。これは狗の窩に類する」(『大明一統志』巻八九・女直の条所引「開原新志」)、15世紀から16世紀の野人について「野人は北海の南、大江の西にいて、平らな土屋にすんでいる。四面に門はなく、〔屋根の〕穴竅は木革を用いてこれを覆っている。平常は屋の東の梯から上下し、死者は西の梯から上下する。たまたまこの習慣を失すると、重く罰せられる。臥籍には草を以てすること、まさしく狗?の如くである。乞列迷と隣りしている」(『遼東志
』巻九・外夷・野人)と指摘している