持統天皇は8月1日に15歳の軽皇子に譲位した。文武天皇である。日本史上、存命中の天皇が譲位したのは皇極天皇に次ぐ2番目で、持統は初の太上天皇(上皇)になった。 譲位した後も、持統上皇は文武天皇と並び座して政務を執った。文武天皇時代の最大の業績は大宝律令の制定・施行だが、これにも持統天皇の意思が関わっていたと考えられる[32]。しかし、壬申の功臣に代わって藤原不比等ら中国文化に傾倒した若い人材が台頭し、持統期に影が薄かった刑部親王(忍壁皇子)が再登場したことに、変化を見る学者もいる[33]。 持統上皇は大宝元年(701年)にしばらく絶っていた吉野行きを行った。翌年には三河国まで足を伸ばす長旅に出て、壬申の乱で功労があった地方豪族をねぎらった。 大宝2年(702年)の12月13日に病を発し[34]、22日に崩御した[34]。宝算58。1年間の殯(もがり)の後、火葬されて天武天皇陵に合葬された。天皇の火葬はこれが最初であった[35]。 『日本書紀』は、持統天皇を「深沈で大度」・「礼を好み節倹」・「母の徳あり」などとする。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
譲位後の持統上皇
崩御
人物評価・歴史学上の論点
『日本書紀』にみる人物像
女帝持統の役割と野心
出典検索?: "持統天皇"
持統天皇は、7世紀から8世紀の日本古代に特徴的な女性天皇(女帝)の一人である。他の女帝についてしばしば政権担当者が別に想定されるのと異なり、持統天皇の治世の政策は持統天皇が推進した政策と理解される。持統天皇が飾り物でない実質的な、有能な統治者であったことは、諸学者の一致するところである。『日本書紀』には天武天皇を補佐して天下を定め、様々に政治について助言したとあり[注釈 6]、『続日本紀』には文武天皇と並んで座って政務をとったとあるので、持統の政治関与は在位期間に限られていない。持統天皇は天武天皇とともに「大君は神にしませば」と歌われており[注釈 7]、天皇権力強化路線の最高到達点とも目される。
政治家としての持統天皇の役割・動機は、天武天皇から我が子の草壁皇子・孫の軽皇子に皇位を伝えることであったとするのが通説である。持統天皇は草壁皇子が天武天皇の後を嗣ぐことを望み、夫に働きかけて草壁を皇太子に就け、夫の死後に草壁のライバルであった大津皇子を排除した。天武天皇の葬礼が終わったあとに草壁皇子を即位させるつもりだったが、その実現前に皇子が死んだために、やむなく自らが即位したと解する[独自研究?]。
近年では、女帝一般が飾り物ではなく、君主として実質的な権力を振るったと考える傾向もあり、?野讃良皇女自身が初めから皇位に向けた政治的野心を持っていたとする説が出てきた[37]。天武天皇が自らを漢の高祖になぞらえたらしいことから、持統天皇は自らをその妻で夫の死後政治の実権を握った呂太后になぞらえたのではないかと推測する学者もいる[38]。 持統天皇の積極的性格と有能さを前提として、彼女による様々な謀略が説かれている。 壬申の乱では?野讃良皇女が大海人皇子に協力したとするのが通説だが、彼女こそが乱の首謀者であるという説がある[39]。 大津皇子の謀反については、持統天皇の攻撃的意図を見ない人の方が少ない。大津皇子の無実を説くか[40]、そうでなくともわずかな言葉をとらえて謀反に仕立て上げられたと考える学者が多い。 持統天皇の系譜
持統天皇による謀略説
血縁
父:天智天皇
母:蘇我遠智娘
同母姉弟:大田皇女、建皇子
夫:天武天皇
子:草壁皇子
孫:珂瑠皇子(文武天皇)、氷高皇女(元正天皇) 、吉備内親王(長屋王妃)
系図
16. 第30代 敏達天皇(=18)
8. 押坂彦人大兄皇子(=20)
17. 広姫
4. 第34代 舒明天皇
18. 第30代 敏達天皇(=16)
9. 糠手姫皇女
19. 伊勢大鹿首小熊女
2. 第38代 天智天皇
20. 押坂彦人大兄皇子(=8)
10. 茅渟王
21. 大俣王
5. 第35代 皇極天皇・
第37代 斉明天皇
22. 桜井皇子
11. 吉備姫王
1. 第41代 持統天皇
24. 蘇我馬子
12. 蘇我倉麻呂
6. 蘇我倉山田石川麻呂
3. 蘇我遠智娘
34 舒明天皇