貞治3年(1364年)の光厳上皇の崩御後、崇光上皇と後光厳天皇の間で、自らの皇統への皇位継承をめぐっての争いが行われる。この争いは、幕府内の斯波義将と細川頼之の両派の争いと連動し、最終的に細川と結びついた後光厳が勝利。応安4年(1371年)、後光厳天皇皇子の緒仁親王が践祚する(後円融天皇)。崇光上皇はこの決定に反発し、持明院統は崇光、後光厳両上皇の皇統に分裂、対立するようになる。
後光厳皇統の朝廷は、将軍足利義満率いる幕府の補佐の下で運営される。永徳2年(1382年)には後円融天皇の皇子・幹仁親王が践祚(後小松天皇)、後円融院政がはじまるが、翌永徳3年(1383年)には院政が停止され、義満が後小松天皇を後見するようになる。この一連の動きは、後円融上皇の気まぐれなどがもとで政治が遅滞するなど、機能しなくなっていた朝廷の立て直しとも、義満による皇位簒奪の陰謀の一環ともされている。一方、義満は崇光上皇と面会し、皇位への望みを放棄するのと引き換えに、金銭的援助を行った[17]。
明徳3年(1392年)、義満の主導の下で南北朝合一(明徳の和約)が行われ、天皇は北朝の後小松天皇一人となる。これにより持明院・大覚寺両統の間での争いは持明院統の勝利となったが、持明院統の中での正統は不確定のままであった。
応永4年(1397年)、崇光上皇が崩御したとき、その所領は光厳上皇の置文により全て後光厳皇統の後小松天皇の下へ移された。これまでの後光厳皇統の生計は幕府の援助で成り立っており、義満は後光厳皇統の経済的自立を図ったものとされるが、所領をすべて失った崇光皇統は断絶の危機に陥る。しかしこの直後に直仁親王が薨御。一期分として与えられていた所領(室町院領)は没後崇光皇統に返却されることになっており、義満も崇光皇統の取り潰しによる遺恨を回避する目的からこれを容認したことにより、崇光皇統は、室町院領を継承する宮家として存在する目途が立つ。以降、崇光皇統はその屋敷の所在地から伏見宮の宮号を名乗ることとなった[18]。その後、応永15年(1408年)の義満死後、長講堂領の内から伏見御領は伏見宮家に返却された[19]。
応永19年(1412年)、後小松天皇は躬仁親王に譲位(称光天皇)に譲位、院政を始めるが、称光天皇は子供に恵まれず、儲君とした弟の小川宮も応永32年(1425年)、兄に先立って没する。後光厳皇統には他に皇位を継承できる男性皇族が存在しなかったために、その断絶の可能性が高くなった。
後小松上皇は称光天皇の後継として伏見宮家を考えており、応永32年には貞仁親王を自身の猶子として親王宣下し、正長元年(1428年)、称光天皇が危篤に陥ると、貞仁親王の子、彦仁王に皇位を継がせることを決断する。称光天皇の崩御を受けて、彦仁王は後小松上皇の猶子として践祚する(後花園天皇)。
この時点で、実系としての正統は、後光厳皇統の断絶により崇光皇統に移動したが、系譜上は決着していなかった。すなわち、後小松上皇は、後花園天皇は自身の猶子として即位し、自分の院政を受けるのだから、後光厳皇統に綱らるものである、という論理を主張したのである。一方貞成親王は、自身が天皇の実父として上皇宣下を受けることで、後花園天皇は自身の子であることを明らかにし、正統の付け替えを図る。貞成親王は崇光皇統に限定した歴史書「正統廃興記」(のちに「椿葉記」と改称)を執筆している[20]。
永享5年(1433年)、後小松法皇が崩御。法皇は遺訓の中で、貞成親王への上皇宣下を決して行わないよう命じた。また、崩御には、諒闇の儀式を行うべきか否かについても対立があった。諒闇を行うと、後花園天皇が後小松法皇の実子である扱いにあるため、法皇の側近たちが実施を主張したためである。貞成ら一派は、諒闇の回避を主張し、激論がかわされたが、結局くじ引きをして決めることとなり、諒闇が実施されることとなった。 後花園天皇本人は、伏見宮出身であったものの、貞成親王の実施であることよりも、後小松法皇の猶子であることを重視し、後光厳院流皇統の後継者であるという意識を持ったことから[21]、父の貞成親王の反感を買った[22]。上皇宣下が出されないまま時は経過する。文安2年(1445年)3月16日、貞常王の元服が行われた。ところが、同時に行われる筈であった親王宣下が中止され、6月7日には「荒説」「云口」(すなわち悪口)を理由として後小松法皇の側近であった広橋兼郷
伏見宮の確立とその後
続いて文安4年(1447年)3月になると、貞成親王への尊号が提案され、激しい議論が行われた。同年11月27日、貞成親王は後花園天皇から、「傍親(=兄)」として太上天皇の尊号を贈られて[24]、後に「後崇光院」と称されることとなった。また、後花園天皇の弟である貞常親王は父・貞成親王の崩御後に伏見宮を継承、後花園天皇より永代にわたって「伏見殿」を名乗ることを許された。こうした二面性のある措置は、後光厳流皇統と崇光皇統の両存を遂げるためであったとされる[25]。
皇統の問題はこうして決着して、後花園天皇の皇統は今日に至るまで正統の座を独占している。また、後花園天皇の践祚と伏見宮への永代宮家の勅命が契機となり、宮家が永続して正統が途絶えた時には皇位を継ぐという世襲親王家の制度が始まった。 持明院統では、伏見天皇が京極為兼とともに革新的な歌風を生み出して以降、京極派の和歌が詠まれるようになった[26]。自らの心を自由な詞で表現するというのが特徴である[26]。伏見上皇のもと、京極為兼によって『玉葉和歌集』が編纂され、光厳上皇は『風雅和歌集』を編纂しており、ともに高く評価されている。南北朝期も、北朝において京極派歌壇が活動していたが、後光厳天皇が墨守的な歌風である二条派に切り替えたことで、初期の伏見宮家以外ではほとんど詠まれなくなった。
文化
和歌
琵琶