拷問
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国際連合の「拷問等禁止条約-拷問及び他の残虐な、非人道的な又は品位を傷つける取扱い又は刑罰に関する条約」において、世界的に禁止されている[1]

現在の日本においては、日本国憲法上「公務員による拷問は絶対にこれを禁じ、かつ、拷問によって得られた自白は証拠として使えない」と定められている。日本国憲法が唯一「絶対に」と明文で禁じている行為である。

混同しないように注意しなければならないのは、法律用語としての拷問は、あくまでも刑事訴訟法に基づく取調べであって、刑法に基づく刑事罰ではないことである。そのため、ギロチンなどの死刑や刑事罰としての鞭打ちなどは拷問ではない。現代でも法定刑罰として鞭打ちなどを行っている国家はあるが、これは刑罰であって拷問ではない点に注意が必要である。

ただし罰であったり、長期間の大きい苦痛の末の殺人であったりしても、国家ではなく犯罪者によるなど、文脈によっては拷問と呼ばれることもある。文化人類学の文脈における儀式性の高い殺害も拷問と呼ばれる。

また、拷問は相手に何らかの要求を聞くよう強要するためにも行われてきた。代表的なものとしては、相手の信仰を改宗させるために行う場合がある。日本にも、キリシタン弾圧に際して行われてきた歴史がある。共産主義国では、反革命思想を矯正するために拷問が用いられた事も多い。戦争においては、相手が持つ情報を聞き出すために行われてきた。

拷問は、容疑者や拷問者の精神状態に変容をもたらし、妄想を増幅させる危険性があるとされている。現代では情報の正確性を重視し、自発的な情報提供を促すため嗜好品で懐柔する手法がある[2]
歴史ニュルンベルクで使われたさらし台などの拷問道具1700年ごろのカトリック教会スペイン異端審問

現在では国際的に絶対の禁忌として厳禁されているが、法制度化は19世紀になってからである。そもそも刑事訴訟法において拷問が必要だったのは、証拠や自白に拠らない古代の神明裁判の克服に必要だったためであった。役人の恣意に歯止めをかけ、理論的な法体系に基づく証拠による判決が制度化されると証拠として自白が重要になり、取調べの法的手段として拷問が使われた。ヨーロッパではザクセンシュピーゲル・ラント法が最初だとする説がある。ここでは「長さ2ダウメネスの1本の生の樫の枝をもって32回打つ」と法定されていた。なお古代ギリシャ・ローマ時代では奴隷に対する主人の拷問などが合法であった。

魔女狩りでは悪魔との契約について自白を迫るための拷問が行われた(後世の創作もある)。なお「針を刺して痛みを感じなかったら魔女」とか「水に沈めて浮かんできたら魔女」等の神明裁判は自白を強要しない点で異なる。

1532年にドイツ初の統一的な刑事法であるカロリナ法が制定されると、法定拷問として「さらし台」が規定された。これは「謀殺、故殺、嬰児殺し、毒殺横領放火反逆窃盗魔術」の九罪の容疑者に限定された上、どのような場合に該当するのかも細かく定められ、違反した裁判官と役人には拷問を受けた人への補償責任を明記するなど、近代的内容が規定されていた。しかし、3回の拷問に耐えられた場合には釈放されるルールのところ、被告ギリーのように実際は12回の拷問が行われていたケースや、バンベルクの裁判調書に被告アンゲリカ・デュースラインに対し午前11時から午後3時までボック(木馬)に4時間乗せられていた記録など、規定が反故にされるケースも多々見受けられた。当時贈収賄による減刑などの問題があったため、容疑者の自白がない場合に拷問官の収賄が疑われる場合があったためである。防衛策として、自白のための過剰な拷問の禁止や、拷問を行いながらの調書の作成などが行われるようになっていった。あるいは、拷問官のストレスを和らげる目的で拷問の際に飲むことが許されていたワインが冷静な判断を欠かせる要因になったことも否定できない。

当時は刑事事件の解決手段としての拷問は正当との認識が有ったと考えられ、皇帝カール五世は次のように語ったと伝えられる。「拷問、および、真実の確定に役立つすべての調査あるによりて、原告人によりて収牢せらるる者どもに関し明瞭にのちに記述せられ規定せられいるごとくに、行為者の自白に基づく有責判決もまた許されるべし」古代よりヨーロッパで用いられた拷問器具「拷問台(ラック)」

拷問が司法手続きの一部として法整備が行われると、専門の公務員も誕生した。この拷問官は職業上人体生理・心理学に通暁するため、医学的な相談を非公式に受けることもあった。なお拷問を行わない処刑人とは別の職業であった。

近代になると、拷問によって得られた自白の証拠能力が疑問視され始めた。1757年ルイ15世暗殺未遂の罪によってロベール=フランソワ・ダミアンが死刑執行前に拷問にかけられて共犯者の名前を自白させられたが、実際は単独犯であった。ところが、フランスの高等法院は結果的に無実の人間への逮捕状を発給して、拷問にかけた。ダミアンは拷問後に処刑されているため、再度問い直すことも出来ないまま終わった。この事件が問題視され、フランスでは1788年に拷問が全面禁止となった。

また、近代以前の戦争では略奪・強姦・奴隷獲得は各兵の重要な目的であり、敵性地域の人々が隠した食料・宝物・家畜・女子などのありかを拷問で聞き出すことは、現代の紛争に至るまで行われている。三十年戦争を題材とした絵などが多く見られる。
日本における歴史

罪人に苦痛を与えて白状を強要させる拷問は、日本でも古代から存在していたと推測されるが、公式に制度化されたのは奈良時代大宝律令が制定されてからである。
古代・中世

律令で定められた拷問は、罪の容疑が濃厚で自白しない罪人を、刑部省の役人の立ち会いのもと、(拷問に用いる場合は訊杖(じんじょう)といった。長さは35=約1 m(メートル)で、先端が4=約1.2 cm(センチメートル)、末端が3分=約0.9 cmと定められていた)で背中15回・尻部15回を打つもので、自白できない場合は次の拷問まで20日以上の間隔をおき、合計200回以下とする条件で行っていた。皇族や役人などの特権者、16歳未満70歳以上の人、出産間近の女性に対しては原則的には拷問は行われなかった。ただし、謀反などの国事に関する犯罪に加担していた場合は地位などに関係なく行われ、そのうえ合計回数の制限もなかったと考えられる。このため拷問中に絶命する罪人も少なくなかった。奈良時代の著名な政変の一つである橘奈良麻呂の乱で、謀反を企てた道祖王黄文王大伴古麻呂、小野東人らが杖で長時間打たれた末、絶命したのは有名だが、他にも承和の変応天門の変伊予親王の変などでも容疑者を杖で打ち続ける拷問が行われたとされている。やがて遣唐使中止や延喜の治の頃になると、杖で打つ拷問は廃れていったと考えられる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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