当時は刑事事件の解決手段としての拷問は正当との認識が有ったと考えられ、皇帝カール五世は次のように語ったと伝えられる。「拷問、および、真実の確定に役立つすべての調査あるによりて、原告人によりて収牢せらるる者どもに関し明瞭にのちに記述せられ規定せられいるごとくに、行為者の自白に基づく有責判決もまた許されるべし」古代よりヨーロッパで用いられた拷問器具「拷問台(ラック)」
拷問が司法手続きの一部として法整備が行われると、専門の公務員も誕生した。この拷問官は職業上人体生理・心理学に通暁するため、医学的な相談を非公式に受けることもあった。なお拷問を行わない処刑人とは別の職業であった。
近代になると、拷問によって得られた自白の証拠能力が疑問視され始めた。1757年にルイ15世暗殺未遂の罪によってロベール=フランソワ・ダミアンが死刑執行前に拷問にかけられて共犯者の名前を自白させられたが、実際は単独犯であった。ところが、フランスの高等法院は結果的に無実の人間への逮捕状を発給して、拷問にかけた。ダミアンは拷問後に処刑されているため、再度問い直すことも出来ないまま終わった。この事件が問題視され、フランスでは1788年に拷問が全面禁止となった。
また、近代以前の戦争では略奪・強姦・奴隷獲得は各兵の重要な目的であり、敵性地域の人々が隠した食料・宝物・家畜・女子などのありかを拷問で聞き出すことは、現代の紛争に至るまで行われている。三十年戦争を題材とした絵などが多く見られる。 罪人に苦痛を与えて白状を強要させる拷問は、日本でも古代から存在していたと推測されるが、公式に制度化されたのは奈良時代、大宝律令が制定されてからである。 律令で定められた拷問は、罪の容疑が濃厚で自白しない罪人を、刑部省の役人の立ち会いのもと、杖(拷問に用いる場合は訊杖(じんじょう)といった。長さは3尺5寸=約1 m(メートル)で、先端が4分=約1.2 cm(センチメートル)、末端が3分=約0.9 cmと定められていた)で背中15回・尻部15回を打つもので、自白できない場合は次の拷問まで20日以上の間隔をおき、合計200回以下とする条件で行っていた。皇族や役人などの特権者、16歳未満70歳以上の人、出産間近の女性に対しては原則的には拷問は行われなかった。ただし、謀反などの国事に関する犯罪に加担していた場合は地位などに関係なく行われ、そのうえ合計回数の制限もなかったと考えられる。このため拷問中に絶命する罪人も少なくなかった。奈良時代の著名な政変の一つである橘奈良麻呂の乱で、謀反を企てた道祖王、黄文王、大伴古麻呂、小野東人らが杖で長時間打たれた末、絶命したのは有名だが、他にも承和の変や応天門の変、伊予親王の変などでも容疑者を杖で打ち続ける拷問が行われたとされている。やがて遣唐使中止や延喜の治の頃になると、杖で打つ拷問は廃れていったと考えられる。 戦国時代から江戸時代後期までは駿河問い、水責め、木馬責め、塩責めなどの様々な拷問が行われたが、1742年の公事方御定書により拷問の制度化が行われ、笞打(むちうち)・石抱・海老責(えびぜめ)・釣責の4つが拷問として定められた[4][3]。 その中でも笞打・石抱・海老責は「牢問」、釣責は「(狭義の)拷問」というように区別して呼ばれ、釣責は重い罪状に限って適用された[4]。「牢問」は牢屋敷内の穿鑿所において痛めつける拷問で、まず後ろ手に縛って肩を打つ笞打が行われ、これで自白しない場合には裸で正座させて重い石を置いていく石抱きが行われる。
日本における歴史
古代・中世