招集
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内訳は現役帰休兵3万2922人、予備役19万9357人、後備役14万510人、補充兵役46万105人、国民兵役3万6891人(いずれも延べ人数)であった[49]。前記の人数を可能にするため、後備役は5年から10年に延長された。それによって従来なら国民兵役であったところを後備役に再編入された人数が5万199人となり、最高で満38歳の者までが兵卒として召集されることになった[50]。日露戦争での召集は、1899年(明治32年)10月より施行された陸軍召集条例施行細則(陸軍省令第29号)で令状を「用紙ハ適宜ニシテ紅色トス」と定めていたため、いわゆる「赤紙」によるものであった[51]

1913年(大正2年)11月、陸軍召集令(勅令第299号)が施行され、それまでの陸軍召集条例は廃止となった[52]。陸軍召集令では充員召集・臨時召集・国民兵召集・演習召集・教育召集・補欠召集と簡閲点呼が規定されている。それまでの条例に臨時召集を加え、各条項の定義を簡潔に書き改めた以外には大きな変更はない。
昭和期
兵役法下の制度

1927年昭和2年)3月、徴兵令にかわって兵役法(法律第47号)が公布され、同年12月1日施行された[53]。兵役法では「帝国臣民タル男子」は常備兵役、後備兵役、補充兵役、国民兵役のいずれかに服すと定められ、常備兵役は現役と予備役に、補充兵役と国民兵役はどちらも第一第二に細分された[54]。召集については「帰休兵、予備兵、後備兵、補充兵又ハ国民兵ハ戦時又ハ事変ニ際シ必要ニ応ジ之ヲ召集ス」と定められ、詳細は兵役法と同時に施行された兵役法施行令(勅令第330号)および陸軍召集規則(陸軍省令第25号)、海軍召集規則(海軍省令第23号)とあわせて規定された[55][56][57]。1927年12月1日時点での陸海軍の召集と簡閲点呼は以下のとおりである。陸軍

充員召集:動員にあたり、諸部隊の要員を充足するため在郷軍人を召集する。

臨時召集:戦時または事変の際、必要により臨時に在郷軍人を召集する。

国民兵召集[58]:戦時または事変の際、国民兵を召集する。

演習召集:勤務演習のため在郷軍人を召集する。

教育召集:教育のため第一補充兵を召集する。

補欠召集[59]:在営の兵に補欠の必要がある際、臨時に帰休兵を召集する。

簡閲点呼:予備役・後備役の下士官と兵、および第一補充兵を集め、調査し訓示を与える。
海軍

充員召集:戦時または事変の際、充員のため在郷軍人を召集する。

演習召集:演習のため在郷軍人を召集する。

補欠召集:臨時兵員の補欠その他で、帰休中または服役1年目の予備役下士官・兵を召集する。

簡閲点呼:予備役・後備役の下士官と兵を集め、調査し訓示を与える。

具体的に召集の対象となるのは兵役法で定められた徴兵による人員だけではなく、志願により軍に入ったのち現役を離れた者が含まれる。陸軍召集規則では待命・休職・停職・予備役・後備役の将校と同相当官[60]ならびに准士官、予備役・後備役の下士官と兵[61]、補充兵(以上をあわせて在郷軍人とする)、および国民兵を召集すると規定した。海軍召集規則は予備役・後備役の士官・特務士官・准士官・下士官・兵、および帰休中の下士官・兵を海軍の在郷軍人と規定した[62][63]。召集に応じることを応召といい、被召集者は法令では応召員、一般には応召者と呼んだ。召集および簡閲点呼はそれぞれの令状によって通達される。陸軍の充員召集令状、臨時召集令状、国民兵召集令状は「用紙ハ適宜ニシテ淡紅色トス」、海軍の充員召集令状は「用紙適宜紅色」と定められていたため[64][65][66]、赤紙という俗称で呼ばれることもあった。詳細は「召集令状#召集命令状の種類」を参照
実施の手順

陸軍の召集は師管(ひとつの師団が管轄する区域)単位で行われ、師団長が統括する。実際に召集の事務業務を行うのは師管内の各連隊区司令部である。召集の人選は国民兵召集を除き、市町村役場から前もって提出された在郷軍人名簿をもとに連隊区司令部で決定し、召集令状が作成される[67]。召集令状は連隊区司令部から各地の警察署を通じ町村の役場へ届けられ(市の場合は連隊区司令部から直接市へ)、兵事係と呼ばれる担当者が応召員に直接令状を手渡すことを原則とした。応召員が不在のときは戸主、応召員または戸主と同世帯で家事を担当する家族などに手渡す。令状を受け取った者は令状に添付されている受領証(実際には令状の一部分になっており、切り離して受領証とした)に受領の年月日と時刻を記入し、捺印(応召員以外が受領した場合は記名捺印)して直ちに返付すると定められていた。したがって、よく言われる一銭五厘のはがき1枚で召集のようなことはあり得ない。詳細は「召集令状#陸軍省」および「兵 (日本軍)#召集」を参照

召集は本籍地主義であり、応召員が就業、就学その他の理由により本籍地に居住していない場合でも本籍地を管轄する連隊区司令部が令状を本籍の住所宛に交付する。令状には応召員が到着すべき日時と場所および召集部隊名が記入されてあり、応召員は令状を召集部隊まで持参する。その際に到着地までに必要な鉄道や船舶の切符は、令状を提示して発行ないしは割引運賃で購入し到着後に自己負担分の返金を受けることができた。詳細は「召集令状#旅客運賃割引証」を参照

海軍の場合は鎮守府を単位として行われ、鎮守府司令長官が統括する。召集の事務を行うのは各地の海軍人事部である。応召員への令状交付の手順などは陸軍省に委託されるため陸軍との間に大きな違いはなかったが、海軍では帰休中の現役兵を呼び出す場合など、該当者に令状が郵送された例もある。詳細は「召集令状#海軍省」を参照
各召集の概要

陸軍の充員召集は動員令(応急動員令を含む)によって実施される。軍隊を平時編制から戦時や事変など有事の編制にすることが動員であり、有事の編制規模は平時より大きいため、その人員を召集により充足する。陸軍では毎年参謀本部が有事を想定した作戦計画を立案し、それに対応した年度動員計画も作成した[68]。充員召集はこれにもとづきあらかじめ召集令状も作成されてあり、動員令が下令されると充員召集令状が発行されることになっていた[69][70]。海軍の場合は動員に相当するものが充員であり、海軍の充員召集は充員令によって実施される。充員召集の解除は陸軍は復員令、海軍は解員令によって実施される。ただし陸軍大臣または海軍大臣の命により一部の召集解除を行うことも可能であった。

臨時召集は戦争や事変が拡大するなどの状況に応じて、既定の動員計画になかった人員の不足を補うために臨時動員令または陸軍大臣の命令で実施される。戦地に派遣した師団が戦死その他により人員の不足が生じたときにも、該当する師団の管轄区域で召集を実施した。支那事変日中戦争)以後、とくに太平洋戦争では臨時召集が多くなっていった。また、1941年(昭和16年)6月のドイツによるソビエト連邦侵攻に呼応した関東軍特種演習のように徹底的に秘匿された作戦においては従来の動員令を適用せず、召集も臨時召集となった例がある[71]

国民兵召集は国民兵動員令によって実施し、その欠員を補充するかその他必要なときにも臨時に召集を実施する。国民兵召集令状は連隊区司令部ではなく市町村役場で作成し、国民兵召集名簿を連隊区司令部に提出する規定になっていたが、それ以外の手続きはほぼ充員召集に準ずるものである。1941年11月の陸軍召集規則改正(陸軍省令第54号)で国民兵召集は廃止され、国民兵役にある下士官と兵は充員召集の対象に加えられた[72]

演習召集と教育召集は本来平時における召集であり、有事に充員召集あるいは臨時召集されても支障なく軍務に適応できるよう備えておくためのものである[73]。演習召集は兵役法では服役期間内に5回、1年に1回とし、陸軍は35日以内、海軍は70日以内を上限と定めていたが、陸軍召集規則では召集回数を服役期間内に2回(幹部候補生出身の将校・下士官は3回、補助看護卒[74]と第一補充兵は1回)、1回につき21日(一部の者は14日)と現実は上限よりも低く設定された。教育召集は歩兵・戦車兵・野砲兵・山砲兵・野戦重砲兵・重砲兵・高射砲兵・工兵・鉄道兵・電信兵のいずれか[75]に第一補充兵として徴集された者が服役期間中に1回90日の教育を各部隊で受けるものである[76][77]。ただし歩兵はあらかじめ青年訓練所の訓練を修了し検定に合格したか成績優秀な者にかぎり、召集期間を75日に短縮した[78]

補欠召集も平時の召集である[79]。兵役法第55条にもとづき、現役の服役期間を残して軍務を終えた帰休兵を、部隊の人員が不足したときに限り臨時に呼び戻すのが陸軍の補欠召集である。1933年(昭和8年)6月の陸軍召集規則改正(陸軍省令第20号)で陸軍の補欠召集は名称を帰休兵召集と改められた[80]。海軍の補欠召集は、現役の服役期間を満了し予備役に編入されて1年目の下士官と兵も対象となった[81]

簡閲点呼は召集と異なり部隊に入隊するものではないが、召集に関する法令に定められている。陸軍の簡閲点呼の場合、予備役・後備役の下士官は通常1年おきに、予備役・後備役の兵および第一補充兵(未教育兵を除く)は服役期間を通じ5回を通常1年おきに行う。未教育の第一補充兵は服役期間を通じ4回を通常2年おきに行う。簡閲点呼は「成ルベク半日間ニ点呼ヲ結了」するよう点呼場、点呼区域、参会人員および点呼日割を定めるとされていた。海軍の簡閲点呼は毎年1回便宜の地において施行すると定められた。
日中戦争以後

兵役法下の召集が大規模になったのは1937年(昭和12年)7月、日中戦争支那事変)の勃発以後である。それまで約35万人から約40万人程度であった陸軍の兵力は1937年には約50万人、翌年には約100万人へ増大した。海軍は約10万人であったものが1937年には約13万人、翌年には約16万人となった[82]。兵力の増強は現役に徴集する比率を上げ服役年限をそれまでの陸軍2年、海軍3年から無期限延長するだけでなく、召集も広く行われ、兵だけでも1938年(昭和13年)に約47万人が召集された(同年に29万人の召集解除もされている)[83]。召集を容易にするため在郷軍人の構成も変更を受け、1941年(昭和16年)2月公布、4月1日施行の兵役法改正(法律第2号)により後備役は廃止され、予備役の服役期間が従来の予備役・後備役の服役期間を合わせた年数に延長された[84]。同年11月、陸軍召集規則改正(陸軍省令第54号)で国民兵召集を廃止し、充員召集の対象者に国民兵役にある下士官と兵を加えた[72]


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